体験談(留学・高度)
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今回の先輩
ファム・キム・ホンさん
1979年生まれ、ホーチミン市出身
1997年 GIA DINH高等学校卒業
1997年 Dai Hoc Bach Khoa Ho Chi Minh(ホーチミン市工科大学)建設学部水資源学科 入学
2002年 Dai Hoc Bach Khoa Ho Chi Minh卒業
2003年 SAWACOの子会社 入社
2005年 SAWACOの子会社 退社
2005年 東京の日本語学校 入学
2007年 東京の日本語学校 卒業
2007年 ニャットベット社 入社
2008年 ニャットベット社 退社
2008年 東神開発ホーチミン市駐在員事務所 入社
2015年 東神会社ホーチミン市駐在員事務所 退社
2015年 独立(YUMIYAコンサルテイング会社設立+フリーランスの通訳)
Mail: Hongphamnv12@gmail.com
ファム・キム・ホンさん
1979年生まれ、ホーチミン市出身
1997年 GIA DINH高等学校卒業
1997年 Dai Hoc Bach Khoa Ho Chi Minh(ホーチミン市工科大学)建設学部水資源学科 入学
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2005年 SAWACOの子会社 退社
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2007年 ニャットベット社 入社
2008年 ニャットベット社 退社
2008年 東神開発ホーチミン市駐在員事務所 入社
2015年 東神会社ホーチミン市駐在員事務所 退社
2015年 独立(YUMIYAコンサルテイング会社設立+フリーランスの通訳)
Mail: Hongphamnv12@gmail.com
はじめに
日本の大企業や行政などがベトナムで主催する大きなイベントに行くたび、同じような顔ぶれの日本語通訳者たちを見かける。トップ通訳のグループで、ホンさんはその1人だ。ホンさんはホーチミンの超一流大学を出て就職後、キャリアアップを思い立って語学留学のために日本に渡った。まだ日本留学が少なかったころだ。ホンさんが日本で送った生活や、帰国後に日本語を生かして取り組んできた仕事はどういうものだったのか――以下にホンさんの体験談を紹介する。
魅力いっぱい、通訳の仕事
私は、日本の行政や企業が行う会議やセミナー、交流会、ビジネスマッチングイベント、社内研修、事業拠点の開所式などで通訳や司会をさせて頂く機会がよくあります。例えば、横浜市とホーチミン市人民委員会との会議(=人材関連)や広島県とカントー市人民委員会との会議(=環境関連)といった行政の会議では、テレビニュースに私も一緒に映ることもあります。
通訳するときは、依頼者の立場や事業内容、会議目的をよく理解したうえで、分かりやすく正確に言葉やニュアンスを伝えるよう努力しています。その結果、繰り返し指名してくださる依頼者も増えました。
例えば、日本のある大きな市はこの2、3年間で約10回、私を指名してくださいました。ただ、最初に人材会社やイベント会社から顧客を紹介して頂いた場合、2回目以降もその会社を通して頂くようにしています。ここでも信頼が大事です。
留学後、日系企業でコンサル業
私のもう一つの仕事はコンサルタントです。留学を終えて帰国後、オーダーメイドの着物を売る小さな会社に入りました。社長が日本人女性で、私は副社長として、生産スケジュールの管理や会計など幅広く担当しました。ただ、もう少し大規模な経営管理を勉強したかったので、約1年後に社外役員にしてもらい、不定期に出社する形に変えました。
次に務めた「東神開発」は百貨店・高島屋の子会社で、ショッピングセンター開発や不動産を手がけています。当初は日本人3人の駐在員事務所でしたが、だんだん大きくなって関連現地法人(コンサルティング会社)ができ、直属の日本人上司と一緒にそこに異動しました。ここでは、日本企業がベトナムで事業を行う際に市場調査をしたりベトナム側の提携先を探したりする業務を担当しました。
ベトナム人感覚と経験を生かしたコンサル
コンサルの仕事はやりがいがあり、手取り月給も24,000,000ドンあったのですが、上司が2014年に日本に帰ったのを機に東神開発に戻り、職場の雰囲気が変わったこともあって翌年退社しました。
そして、コンサル業で独立し、最初は顧客が少なかったので、主に通訳で生計を立ててきました。紹介で通訳業務が増え、かかりきりでしたが、2019年からは、大好きなコンサルにも力を入れ始めています。日本企業の現地法人設立支援などこの年だけで数件の受注があり、日本語力と帰国後の経験を生かして取り組んでいます。
日本企業がベトナムで事業を進める際、日系のコンサル会社や顧問と一緒にやることが多いのですが、コンサル会社や顧問の知識、感覚、事業理解などが依頼者の求めに達していないケースがよくあります。私は通訳としてこういうケースを目にしてきましたが、私の顧客に対しては、ベトナム企業の文化やマインドと日本企業のマインドとの橋渡しをし、コンサルと通訳の両方の経験を生かして事業推進のために最大限お役に立ちたいと思っています。
就職後、日本留学に踏み切る
さて、私が日本に留学したいきさつを少し話します。私は大学を出てSAWACO(ホーチミン市水道局)の支部に就職しましたが、自分が成長する機会があまりないと感じていました。そんな時、東京の日本語学校の生徒募集の仕事をしていた知人に誘われました。
大学時代に1年余り、地元の日本語学校で週3回日本語を習い、就職後もドンズー日本語学校の社会人コースに1年あまり通ったので、この機会に日本語を本格的に身につけて将来の仕事につなげようと考え、訪日しました。そして、東京では、マンションの1室(ワンベッドルーム、台所は別室)にベトナム人3人、スリランカ人1人で一緒に住みました。
わたしの家計簿
※2005年~2007年
※100円=21,943 VND(2020年3月31日現在)
収入(合計約120,000~130,000円)
アルバイト(居酒屋) | 計90,000~100,000円 ※税金を引いた後の手取り額 ※夏休みなど長期休暇時は少し増える |
仕送りなど | 30,000円 ※ベトナムから持って行ったお金と母からの仕送り |
支出(合計 約120,000~130,000円)
寮費・光熱費 | 35,000円 ※1DKに4人暮らし、1室に2段ベッド2台 ※電気・ガス・水道の料金込み |
携帯電話 | 0円< ※当時はあまり普及していなかった |
学費 | 65,000円 |
食費 | 20,000円 ※自炊 |
雑費 | 5,000円~10,000円 ※留学生仲間とたまに日帰り旅行 |
差額(貯金) なし
日本語上達のために
日本での最初のアルバイトは学校からの紹介で、スーパーでの仕事でした。倉庫から品出しをしたり賞味期限が近づいた食品に割引のシールを貼ったりする仕事ですが、日本人との会話が少なかったので、半年間でやめました。しかし、当時は留学生のアルバイト先が少なく、求人雑誌を見て電話しても日本語が下手なので面接にこぎつけるが困難でした。
そこで、ハローワークに行って、担当者から「仕事を探しているベトナム人留学生がいますが、どうですか」と電話してもらい、面接を受けて合格しました。居酒屋で、お客さんの注文を聞いたり料理を運んだりしました。店長や店員との会話も多く、日本語の練習になったので、帰国するまでここで働きました。
日本語学校では、アルバイトで疲れて授業中に眠る人も多くみかけましたが、なんとしても日本語を身につける覚悟で留学したので、私は眠らないようにがんばりました。また、学校が休みの土日は、近くの公共図書館に行って勉強しました。
また、東京で仕事を定年退職した日本人のボランティア数名が毎週水曜に1時間半ぐらい外国人と会話する日本語サークルを開いていました。私はこの日はバイトを入れず、毎週ここに行きました。日本人教師1人、外国人4、5人の少人数教室でした。これ以外に、ボランティアによる無料の料理教室にも参加しました。これらの教室やアルバイト先での会話が日本語力の向上に大きく役立ちました。後輩の留学生の方々も、できるだけ日本人と話す機会を見つけてください。
元日本留学生クラブ(Japanese Universities Alumni Club in HCM)
帰国後はホーチミン市元日本留学生クラブ(Japanese Universities Alumni Club in HCM)に友人の紹介で入りました。ここには1,000人以上のメンバーと数十人の中心メンバーがおり、JASSOの日本留学フェアの運営や通訳を手伝ったり、独自のイベントを行ったりしています。仲間同士の交流も盛んです。
将来につながる留学を
今、日本でベトナム人による犯罪が増えています。日本語の準備をせず軽い気持ちで留学しても、よいアルバイトには就けません。そして、お金に困った留学生を悪いグループが窃盗などの犯罪に誘います。こうしたことにならないよう、自分が将来どうなりたいのかよく考えてから留学しましょう。
目の前のお金を稼ぐよりも、自分の将来や家族のことをよく考え、将来の仕事につながる成果を得るように努力しましょう。具体的には、まずは、日本語学校で平均以上の成績をとれるようにがんばってください。
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VOL. 92 日本の文学小説を多数翻訳・出版
ベトナムから海外留学する人がまだ少なかった1990年代に日本に留学したニエンさん。留学仲間の夫が沖縄で就職したため彼女も沖縄に長く住むことになり、その間に日本の文学小説をたくさん翻訳し、ベトナムで出版。最近は、沖縄に住むベトナム人技能実習生たちのサポートにも力を入れています。 今回の先輩 グエン・ド・アン・二エンさん 1994年ホーチミン国家大学東洋学部入学 1997年名桜大学で交換留学〈沖縄、1年間〉 1999年ホーチミン国家大学卒業 1999年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈2年間〉 2001年名桜大学大学院修士課程入学 2003年修士課程修了 2003年大阪府立国際児童文学館外国人研究員〈6カ月〉 2004年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈4年間〉 2004年TRE出版社で日本語通訳・翻訳〈4年間〉 2011年名桜大学附属図書館でアルバイト〈5年間〉 2011年名桜大学非常勤講師〈現在も〉 2022年沖縄大学非常勤講師〈現在も〉 〈1976年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 • 交換留学で沖縄へ • 国際交流基金の制度で2度目の留学 • 留学中の生活 • 夫の就職がもとで沖縄在住 • 保育園の心やさしい先生たち • 日本で大学講師 • 日本の文学作品を約20冊翻訳 • 沖縄のベトナム人コミュニティ 交換留学で沖縄へ 来日前に知り合った京都の日本人の家で着物体験〈1998年1月〉 私はもともと医学部に行きたかったのですが、高校3年のときは医学部の受験準備が十分にできていなかったので、入れる学部に入って受験勉強を続けようと思って東洋学部に入りました。高校の授業で川端康成の作品をベトナム語で読み、いつか日本語で読みたいと思っていたので、新設されて2年目だった東洋学部を選びました。その後、医学部は断念し、日本語を極めることにしました。 大学在学中、成績優秀者4人が名桜(めいおう)大学に交換留学できることになり、私もその1人に選ばれました。そして、日本での授業料や飛行機代、毎月の生活費(8万円)を日本政府から支給してもらいました。ただし、ベトナムの大学と提携している日本の大学が当時はまだ少なかったので、ほかの大学は選べませんでした。 国際交流基金の制度で2度目の留学 国際交流基金のイベントで沖縄のテレビ局が私にインタビュー 交換留学から帰国して1年後の1999年、私は東洋学部を卒業し、その学部の日本語講師になりました。すると、若手講師向けに日本の国際交流基金のフェローシップの募集があり、応募して合格しました。毎月24万円を1年間支給され、大学院の授業料も払ってもらえるという制度でした。 私はこの制度を使って2001年6月に名桜大学総合研究所の研究員となり、10月からは大学院にも入りました(研究員と大学院生の兼務)。最初は研究員として1年勉強したら帰国するつもりでしたが、名桜大の教官の勧めで2年目も大学院に残り、貯金とアルバイトで生活しました。大学院では宮澤賢治(昔の有名作家)を研究し、修了後も半年間、大阪府立国際児童文学館の研究員として研究を続けました。 留学中の生活 大阪に住んだときに、私を娘のようにかわいがってくれた「日本のお母さん」 交換留学のときや大学院2年目はアルバイトもしました。それは皿洗いやスーパーマーケットのレジ担当、大学図書館のカウンター業務などでした。当時はインターネットがあまり普及していなかったので、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話するというパターンでした。 住まいは交換留学のときも大学院のときも大学の寮で、他国からの留学生もいたので、一緒に食事をしたり地域行事に参加したりしました。 また、学内の「留学生センター」に談話室があり、ここでも各国からの留学生と日本語で交流できました。もちろん、自分から話しかけて日本人の友だちも作り、ネイティブの日本人と会話する機会もたくさん作りました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学院2年目の家計簿(2001~2002年) ※100円=約17,521 VND(2023年4月15日現在)) 収入:110,000円~130,000円 アルバイト 110,000円~130,000円 ※アルバイト2件(スーパーのレジ、図書館) 支出:91,000円 1カ月分の学費(年2回納付) 50,000円 家賃 10,000円 ※大学の寮 水道・電気・ガス 5,000円 食費(主に自炊) 15,000円 携帯電話 1,000円 雑費 10,000円 ※外食など 毎月の差額:平均3万円 ※大学院1年目の貯金や夏休みなどの長期休暇時に長く働いて貯めたお金で毎月の不足を解消。 夫の就職がもとで沖縄在住 家族で長年暮らした沖縄県名護市 私が沖縄に長く住むことになったのは、夫が沖縄で就職したことが原因です。夫は私の東洋学部の同級生で、私より半年遅れで名桜大学の大学院で留学を始めました。 私は夫より半年先に大学院を修了し、半年間の大阪勤務を経て2004年3月に帰国して大学の日本語講師に戻りました。同じころ、夫は沖縄の会社に就職。その10カ月後の2005年1月、私たちは結婚し、夏休みとテト(ベトナムの旧正月)に私が沖縄の夫を訪ね、普段はインターネットのメッセージボード(チャット)で連絡を取り合う「遠距離結婚」が3年間続きました。当時はSNSもありませんでした。その後、長女が2歳になろうとしていた2008年、家族一緒に暮らすために私が仕事を辞め、娘と一緒に沖縄に移り住みました。そして、沖縄で次女が生まれました。 保育園の心やさしい先生たち 日本の「キャラ弁」(イメージ写真) 私は沖縄で2人の娘を5年ずつ保育園に預けました。娘たちは保育園に弁当を持って行きますが、日本では、アニメキャラクターをデザインした「キャラ弁」という手のこんだ弁当がはやっています。私は弁当の本を読んで「こんな難しいお弁当、私には作れない」と悩み、保育園の先生に相談しました。すると、先生は「難しいお弁当を作らなくても、お母さん(あなた)の作れるお弁当でいいんですよ」と励ましてくれました。 また、異国で育児をしているので、子どもが病気になったり、何かトラブルに直面したりすると、とても緊張しました。このため、心に余裕がなくなっていましたが、夏休みにベトナムに一時帰国することを先生に伝えると、先生は「帰国したら、あなたもあなたのお母さんにたくさん甘えてね」と言ってくださり、私は涙が出そうになりました。娘だけでなく母親の私のことも気にかけてくださる先生の思いやりに心を打たれたのです。 先生と子どもたちとの会話やスキンシップも多かったようで、娘たちも先生たちによくなつきました。先生は毎年変わりますが、どの先生も思いやり深く、長女も二女も保育園が大好きでした。日本の七夕(たなばた)では、願いごとを書いた短冊(たんざく)をササの葉に結びつけますが、娘は「先生に彼氏ができますように」と書いていました。 娘2人が計10年間お世話になったこともあり、私は二女の卒園式で保護者代表としてあいさつをさせていただきました。私は先生方への感謝と思い出が胸にあふれ、泣きながらあいさつをしました。また、お母さんたちにも親切な人が多く、とても恵まれた保育園生活でした。沖縄は土地の雰囲気もやわらかく、人の心に余裕があるのかも知れません。 日本で大学講師 名桜大学で私の講義の受講生らと(授業は対面+オンライン) 私は2008年に沖縄に移ってから3年間は専業主婦でしたが、次女も保育園に通い始めた2011年、大学院時代にアルバイトをした名桜大の図書館で再び働き始めました。 また、その年から、留学時代の指導教官の推薦で名桜大の非常勤講師として「ベトナム事情」という講義(週1コマ)も担当しています。さらに、2019年からはこの大学でベトナム語(週1コマ)も教え、2022年から沖縄大学でもベトナム語(週2コマ)を教えています。 日本の文学作品を約20冊翻訳 私が翻訳した「文明論の概略」(左)と「宮澤賢治短編集」 私はベトナムの大学の卒業論文で作家の宮澤賢治を取り上げた際、「銀河鉄道の夜」という彼の有名な作品を翻訳しました。その後、大学院と大阪の研究所でも宮澤賢治を研究し、賢治への理解も私の日本語力も深まったので、「銀河鉄道の夜」を翻訳し直し、ベトナムの人たちにも読んでもらいたいと考えました。そこで、日本の出版社に問い合わせて著作権について確認した後、ベトナムの出版社に持ちかけてベトナム語版の出版が実現しました。 これがきっかけで、その後も日本の文学作品などをときどき翻訳するようになり、これまでに約20冊を翻訳し、ベトナムで出版されました。その中で特に苦心して翻訳したのは、樋口一葉の「たけくらべ」や福沢諭吉の「文明論の概略」、川端康成の「千羽鶴」などでした。 沖縄のベトナム人コミュニティ ここ数年、ベトナムから日本への技能実習生が増え、失踪する人もたくさんいます。そこで、私は地元の技能実習生たちに日本語や日本文化を教えたり、一緒に地域行事に参加したり、観光に連れて行ったりする取り組みを始めました。 日本語教室 は2019年10月に始めました。最初は、実習生を雇っている会社から頼まれて3人に教えていましたが、その後、名護市国際交流協会の教室でも教えるようになりました。そして、2020年のテトを祝って技能実習生たちを集めて食事会を開いた際に彼らから頼まれ、日本語サークルを作りました。このサークルでは、公民館などで毎週日曜に日本語を教えたり、月に1回は書道(=写真)などの文化体験をさせたりしました。 技能実習生たちと日帰り旅行 日本語学習会には多いときで12人、文化体験には約30人が参加しました。しかし、新型コロナの影響であまり集まれなくなり、2021年はオンライン日本語教室(週1回)だけになりました。こうした中から日本語能力試験(JLPT)のN3やN4に合格した生徒もいます。 また、私は地域のベトナム人たちと必要な情報を共有したり、悩みの相談に乗ったりすることも、大事だと考えています。例えば、新型コロナ対策で住民向けに割引の商品券が発行されても、多くのベトナム人はその情報を知りません。そこで、私がFacebookなどで情報を広めることもあります。また、私たちの住む名護(なご)市から沖縄の中心地・那覇(なは)市までは遠いので、私たち家族が車で那覇に行くときに実習生たちのほしいものを代わりに買ってくることもあります。沖縄に長く住んでいるので、これからも地域のベトナム人のお役に立ちたいと考えています。
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VOL. 90 寝ても覚めても勉強し3年でN1合格
日本に留学してまもなく「自分で努力しなければ、いつまでたっても日本語で会話できるようにならない」と気づいたウットさん。空いている時間はいつも日本語を勉強し、3年でN1に合格。日本での就職や帰国後の日系企業への就職でも大いに役立ちました。 今回の先輩 タ・ティ・ウットさん 2011年高校卒業 2012年日本語学校入学〈福岡県〉 2014年専門学校入学〈福岡県〉 2015年結婚、JLPT・N1合格 2016年専門学校卒業 2016年日本で就職〈愛知県〉 2017年夫の転勤に伴い帰国 2017年HISハノイ支店入社(正社員) 2019年出産 2020年日系の会計事務所入社〈ハノイ〉 〈1993年生まれ、ハノイ出身〉 ◆このページの内容 • 準備不足で訪日 • 日本語学校と専門学校に留学 • 学校選びに失敗 • 寝ても覚めても日本語を勉強 • アルバイトでたくさん日本語会話 • 私の家計簿 • 日本で留学生と結婚 • 夫の転勤で帰国 • ハノイで日系企業の正社員に • 別の日系企業に転職 • 日本留学で得たもの 準備不足で訪日 私の姉は2010年から日本に留学し、その後、日本人と結婚して今も日本に住んでいます。私は高校卒業後、姉に習って日本に留学することにしました。その準備として、ハノイの日本語センターの寮に住んで3カ月間勉強しました。その間は授業を含めて毎日6時間勉強しましたが、日本で暮らすために日本語がどれぐらい必要かわかっていなかったので、今から思うととても不十分な勉強でした。 ひらがな、カタカナと簡単な会話しか覚えずに日本に行った私は、当初、言葉のことでとても苦労することになります。 日本語学校と専門学校に留学 日本で一緒に暮らした姉(右) 私は2012年10月、姉が通っていた福岡市の「西日本国際教育学院」という日本語学校で留学を始めました。最初の3カ月間は学校の寮に住み、4カ月目からは姉と一緒に暮らしました。 日本語学校で1年半学んだ後、私は「国際貢献専門大学校」という専門学校に進みました。この学校は、私が通った日本語学校の系列校です。本当は他の大学か専門学校に行きたかったのですが、系列校に進学すれば学費が割り引かれるという特典にひかれてその専門学校を選びました。しかし、この学校を選んだことを後で大きく後悔することになりました。 学校選びに失敗 私はこの専門学校でITを学ぼうと思い、「情報ビジネス」を専攻したのですが、専門分野の授業はほとんど受けられませんでした。当時、この学校はできたばかりで、学校の準備不足によってITの教師が不足していたのです。 IT関係の授業は休講続きで、代わりにいつも日本語の授業を受けされられました。しかも、私は専門学校に入る前に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、当時はN2・N1を目指していたにもかかわらず、専門学校の日本語授業はN3・N4レベルでした。私は担任の先生に「もっとITの勉強をしたい」と何度も訴えましたが、何も改善されませんでした。後輩の皆さんは学校の評判をよく調べてから進学先を選んでください。 寝ても覚めても日本語を勉強 留学を始めて最初の数カ月間、私は日本語力不足でアルバイトが見つかりませんでした。友人からアルバイトを紹介してもらっても、工場など日本語を話さなくてもよい職場ばかりでした。私はまわりの日本人が話す日本語がほとんどわからず、自分の言いたいことも伝えられず、ストレスがたまっていつも家で泣いていました。 そして、「日本語がわからないと何もできない」「自分で勉強しないと、どれだけ日本人と交流しても話せるようにならない」と気づき、猛勉強を始めました。学校の授業以外に、昼でも夜でも休日でも空いた時間はできるだけ日本語を勉強し、アルバイト先でも上司や先輩とできるだけ会話するようにしました。 その結果、私は留学を始めて9カ月後にJLPT・N3に合格し、その2年後にN1に合格しました。最初は「みんなの日本語」を使い、N2・N1対策には市販の問題集を使いました。また、自分の好きなYouTubeチャンネル(日本語)を聴いてリスニングの練習をしました。 アルバイトでたくさん日本語会話 アルバイト仲間の日本人たちと焼肉会 日本語が話せるようになるにつれ、日本語を使うアルバイトに採用されるようになりました。そうなると、仕事をしながら日本語の練習ができ、わからない言葉や言い方は日本人の先輩や同僚に教えてもらえるので、日本語の会話力が急速に伸びていきました。 アルバイト探しについては、友人に紹介してもらうか、無料の求人情報誌を見て店に電話をかけ、面接を申し込みました。そして、アルバイト先の先輩や仲間と仲良くなり、一緒にご飯を食べに行くこともよくありました。また、クリーニング工場のおばさんは自宅に私と友人を招いてくれました。これらの人たちの中には、今もFacebookなどで連絡を取り合っている人もいます。 ◎私が日本で経験した主なアルバイト クリーニング 工場でクリーニングした大きなカーテンを2、3人でたたむ仕事。ホテルで使うカーテンでした。 ビジネスホテル ベッドメイキング、清掃 居酒屋 ホール(接客)、片付け、開店準備 レストラン キッチン、早朝の仕込み(料理の準備) 弁当店 キッチン、レジ 技能実習生の監理団体(組合) 通訳、技能実習生の生活サポート) 私の家計簿(1カ月の平均) ※専門学校時代の家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:120,000円~150,000円 給料 ¥120,000~¥150,000 ※アルバイト2、3件 支出:158,000円~160,000円 学校の授業料 ¥55,000 家賃(ワンルーム) ¥50,000 ※1に暮らし、Wi-Fi・水道代込み 電気・ガス ¥8,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 食費 ¥25,000 ※バイト先で無料のまかないを食べることも多かった。 雑費 ¥10,000 ※交通費、学習教材、衣類 毎月の差額:▲10,000円~38,000円 ※夏休みなどの長期休みに多く働いて不足を補いました。 日本で留学生と結婚 新婚時代の夫と私 私の姉は福岡で日本語学校から大学に進学しましたが、ある日、姉の大学の同級生のベトナム人男性が姉と私の家に遊びに来ました。ほどなくして私は彼と付き合うようになり、約2年半後、彼は大学を卒業して日本で就職することになりました。その少し前に私たちは結婚し、福岡のベトナム総領事館に婚姻届けを出しました。その後、私も就職が決まり、名古屋に引っ越して一緒に住みました。 私は就職するまで3年半留学しましたが、生活費や学費を稼ぐために早朝や夜にアルバイトをし、それ以外は勉強に打ち込んでいたので、休日は疲れて横になっていることも多く、旅行にはあまり行きませんでした。夫と知り合ってからも一緒に公園やゲームセンターなどでデートするぐらいで、観光はあまりしませんでした。今にして思えば、日本にいる間にもっとあちこちに旅行しておけばよかったと思います。 夫の転勤で帰国 帰国直前にベトナムの家族を名古屋に招待 私たちは2015年に結婚し、私は正社員の夫の妻として日本に在留する予定だったので、本格的な就職活動はしていませんでした。しかし、夫の勤務地が名古屋に決まると、私は家の近くでできる仕事を探し、この会社に履歴書を送って面接を受けたところ、携帯電話ショップを運営する会社の正社員に採用されました。 日本の携帯電話ショップの店員は携帯電話の端末を売る仕事よりも通信契約に関する対応が多いので、さまざまなことを覚えなければなりません。そのため、通常は入社後6カ月間の新人研修を経てやっと店に出ることができます。研修では、接客マナーやパソコン操作、さまざまなサービス内容を学びますが、私は3カ月で覚えることができ、通常より早く店に出ることができました。しかし、就職して1年半後に夫がハノイに転勤になり、私も退職して帰国することになりました。 ハノイで日系企業の正社員に HISハノイ支店の入っているビル〈2018年〉 2017年7月に帰国してまもなく、私は日本の大手旅行会社HISのハノイ支店で正社員として働き始めました。店のカウンターで日本人客(主に駐在員)に航空券やホテル、ツアーを手配する担当でした。個人がインターネットで航空券やホテルを手配することもできますが、会社の業務で出張する場合に旅行会社を使うと、経理処理に必要なインボイスが発行されますし、顧客サービスも良いので、HISを使う日本人はとてもたくさんいました。 ところで、私は帰国が決まってすぐにハノイでの仕事を探し始めました。しかし、日本と違ってベトナムでは面接に合格したらすぐに働き始めてほしいという会社がほとんどだったので、結局、帰国後にFacebookで仕事を探し直し、HISに入りました。 別の日系企業に転職 HSKVのパーティー 私はHISで約2年半働き、出産を機に退職しました。そして、2020年からはHSKV(HSK Vietnam Audit Company)という日系の会計事務所で働いています。私の仕事は会長(日本人)の秘書で、秘書業務以外に下記のような仕事も担当しています。 監査報告書や移転価格報告書、事業概況報告書などの翻訳 顧客企業の帳簿の入力 顧客企業の給与計算表のチェック 個人所得税の計算と申告 顧客企業の日本人駐在員の労働許可証・ビザ・レジデンスカードの申請 HSKVの仕事もFacebookで探し、給料はHISのときより約30%上がりました。転職したのは、HISでは土日の出勤もあったため、出産後の生活に合わなくなったためです。今の会社を選んだのは、朝8時~9時の間に出勤し8時間勤務すればよいというフレキシブルな勤務時間と自宅から近いことが決め手でした。 ハノイに戻って2つの日系企業に就職して思うのは、日系企業への就職には、履歴書の内容よりも面接での評価(日本語会話力や対人能力など)の方が重視されるような気がします。 日本留学で得たもの 私は留学中、学校選びに失敗したことをとても後悔しました。しかし、学校で専門知識は得られなかったものの、自分で日本語の勉強やアルバイトに一生懸命に取り組み、3年でJLPT・N1に合格できました。また、アルバイト仲間に日本語で積極的に話しかけ、会話も十分にできるようになったので、ベトナムに帰国して日系企業に就職する際にとても役立ちました。 留学せずベトナムで日本語を勉強する人も素晴らしいですが、留学経験者の方が全体的にリスニング力が高く、日本での生活やアルバイトも経験したということで、日系企業での就職には有利なようです。私は日本で留学できて本当に良かったと思います。
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VOL. 89 「みんなの日本語」の解説本を翻訳
日本語を学ぶ外国人の多くが最初に手にする日本語の教科書「みんなの日本語」。その解説本4冊を1人でベトナム語に翻訳したドンア大学副学長のヴィンさん。ヴィンさんの日本留学体験や学生時代の勉強方法などを紹介します。 今回の先輩 ゴ・クアン・ヴィン さん 1998年高校卒業〈クアンチ省〉 1998年ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部入学 2002年ハノイ大学卒業 2002年日本の設計会社で勤務(通訳・翻訳)〈ハノイ〉 2004年国立ダナン大学外国語大学日本語学科で日本語講師 2008年一橋大学で研究生として留学〈東京〉 2010年一橋大学修士課程入学 2012年一橋大学博士課程入学 2015年一橋大学博士課程修了 2015年国立ダナン大学外国語大学日本語・韓国語・タイ語学部長 2020年ドンア大学副学長兼日本言語文化学部長〈ダナン〉 〈1980年生まれ クアン・チ省出身〉 ◆このページの内容 •「みんなの日本語」の解説本を翻訳 • 大学で日本語を学び日系企業へ • 私の日本語学習法 • 6年半の日本留学 • 私の家計簿 • 留学中の交流 • 留学中に困ったこと • ベトナム語の専門書を日本語で出版 • ドンア大学について 「みんなの日本語」の解説本を翻訳 日本語を学ぶ外国人の多くが最初に使う教科書「みんなの日本語」の「翻訳・文法解説」があるのをご存じの方も多いと思います。「みんなの日本語」は日本語だけで書かれているので、十分に理解できないときに「翻訳・文法解説」を読めば、内容が理解しやすくなります。私は2013~16年に「みんなの日本語」初級Ⅰ、初級Ⅱ、中級Ⅰ、中級Ⅱの「翻訳・文法解説」をベトナム語に翻訳しました。 この翻訳を始めたとき、私は一橋大学(東京)で留学していましたが、そのときの指導教官が私のベトナム語力と日本語力を高く評価し、出版社に推薦(すいせん)してくださったことがきっかけでした。翻訳する際には、もとの日本語の意味ができるだけ正しく伝わるベトナム語にしたいと思い、言葉をていねいに選びながら時間をかけて翻訳しました。 大学で日本語を学び日系企業へ 会社の仲間と日本の石炭鉱山の見学 私が高校のとき、有名な日本ドラマ「おしん」がベトナムで放送されていました。わたしは主人公・おしんのけなげな生き方や勤勉さ、ドラマに出ていた昔の日本家屋などがとても気に入って、日本についてもっと知りたくなりました。高校では英語コースでしたが、大学では別の外国語を勉強しようと思っていたこともあり、ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部に入りました。 私は大学で4年間日本語を学んだ後、新聞の広告欄で見つけた日系企業に入りました。これは木造住宅の構造設計をする会社で、私は日本人の社長や技術者たちとベトナム人スタッフとの間の通訳や書類の翻訳をするチームのリーダーとして働きました。その後、大学で日本語を教える仕事に興味を持つようになり、知人の紹介で国立ダナン大学の日本語講師になりました。 私の日本語学習法 ハノイ外国語大学の教室で 私は大学生のとき、大学のゼミや講義以外に毎日6~8時間、自習しました。インターネット上の学習素材も紙の日本語教材も少ない時代だったので、今よりも勉強に工夫が必要でした。そのときに私が行った勉強方法を紹介します。 新聞の1面のコラムを読む:私は日本の新聞の1面のコラムを読み、ほぼ毎日、その内容について大学の先生と日本語でディスカッションしました。 自分で文章を作って読む:参考書に書かれている語彙(ごい)や文型を使って文章を作り、自分で声を出して読みました。 ハノイ大学日本語学部の級友たちとお出かけ これ以外に、古本屋で日本の古新聞を買い、何度も辞書を引きながら読みました。言葉の勉強では、やはり辞書を使い込むことが大事です。それでも理解できない部分がたくさんあったので、私は大学でただ1人の日本人の先生にアポを取り、質問に応じてもらいました。ただ、当時ハノイには日本人がまだ少なく、ネィティブの日本人との会話練習がほとんどできないのは残念でした。 6年半の日本留学 修士課程を修了 ダナン大学で講師をしているとき、日本の文部科学省が提供する留学生向け奨学金に応募しました。そして、在ベトナム日本国大使館で試験を受けて合格し、国費留学生として日本に行くことになりました。留学先には東京外国語大学も検討しましたが、少人数で勉強・研究できる一橋(ひとつばし)大学を選びました。 こうして私は2008年10月に一橋大学の研究生として訪日し、研究生1年半、修士課程2年、博士課程3年の計6年半、文科省の奨学金で留学しました。そのうち約2年間は妻と一緒に暮らしましたが、妻が2011年に東日本大震災による原発事故を契機に帰国してからは妻子と離れて留学しました。 妻と息子 私は留学中はずっと学費無料で奨学金も受給していたので、アルバイトは最小限にしてできるだけ勉強をしました。しかし、毎年、お盆とテト(旧正月)に帰国するための旅費がかかり、普段は節約生活を強いられました。私がよく使った便は成田→香港→ハノイ→ダナンというルートで、乗り継ぎが悪いため安価でした。一番安いときは往復28,000円でしたが、留学中に燃油サーチャージ(12,000円~15,000円)を加算する制度が始まり、大きな痛手でした。また、当時はSNS電話がなかったので、30分3,000円の国際電話(当時としては格安)でたまにだけ妻と話しました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※博士課程のときの家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:200,000円 奨学金 ¥150,000 給料 ¥50,000 ※アルバイト(通訳・翻訳、辞書作りの手伝いなど) 支出:100,000円 授業料 ¥0 家賃 ¥50,000 ※東京都内、ワンルーム 電気・ガス・水道 ¥5,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 ※国際電話代を含む インターネット ¥6,000 食費 ¥35,000 ※昼は大学の食堂、夜は主に自炊。 交際費 ¥15,000 雑費・交通費 ¥20,000~¥25,000 ※衣類、教材、交通費、化粧品など 毎月の差額(貯金):60,000円 ※貯めたお金で帰国の際の航空券などを購入。 留学中の交流 ベトナム人仲間と東京で日本庭園(夜間ライトアップ)を見学 6年半も日本に住んだので、日本人との交流もたくさんありました。指導教官やゼミの仲間と食事に行ったほか、アルバイトを通じて知り合った人たちとも交流しました。 ベトナム人同士の交流もありました。国費留学に合格した同期のメーリングリストがあったので、日本に行ってから留学生同士の交流のきっかけになりました。 また、東京のベトナム大使館が独立記念日やテトの際に行うイベントもあり、そこでもベトナム人同士の交流ができました。 留学中に困ったこと external link KOKORO|花粉症について(※クリック) ところで、留学中に困ったこともたくさんありました。 休日に病気になったとき 休日に医療機関に行っても対応してくれず、困りました。留学3年目に花粉症になり、くしゃみと鼻水がひどく、とても疲れました。そこで、週末に2、3カ所の医療機関に行きましたが、休日なので受け付けてくれず、どうしたらよいかも教えてくれませんでした。その後、平日になんとか時間を作ってクリニックに行き、薬を処方してもらいました。また、ひどい腹痛のときに近くの病院に電話しましたが、「大きな症状やけがなら診(み)るが、今回は無理です」と断られ、がまんするしかありませんでした。いずれも機械的な対応で、「外国人だから対応が悪いのでは」と感じました。日本は外国人向けの公的な救急医療制度をもっと充実させるべきだと思います。 external link KOKORO|日本での住宅の探し方(※クリック) 住宅探し アパートを探すとき、外国人だから借りられない物件がたくさんありました。その後、当時よりはましになったものの、今も外国人お断りの物件が多いと聞きます。 外人扱い 電車内でベトナム人同士で会話していると、そばにいた日本人たちが向こうに行ってしまいました。日本の電車内でのマナーを理解して私たちは小さな声でしゃべっていたのに、そのような行動をされ、残念でした。また、電車内でくしゃみをすると、マスクをしていても周囲から冷たい視線を受け、これも外国人への偏見のように感じました。このため、かぜをひいたときは電車に乗るのがおっくうでした。 日本人はもっと外国に出て国際感覚を高めてほしいですし、日本の行政は外国人が居心地よく暮らせるように、地域の外国人サポート窓口をもっと充実させてほしいと思います。 ベトナム語の専門書を日本語で出版 external link この本のAmazonでの販売ページ(※クリック) 2015年に留学を終えた私はその年から国立ダナン大学 外国語大学の日本語・韓国語・タイ語学部長になりました。そして、2020年にドンア大学の副学長兼日本言語文化学部長になりました。 私は留学中に日本語教育やベトナム語の類別詞について研究しました。類別詞とは名詞の数え方です。例えば日本語で「一つ」「1枚」「1個」などと数えるときの「つ」「枚」「個」などが類別詞で、ベトナム語ではどのような類別詞があるのかを留学中の博士論文にまとめました。この論文を帰国後にさらに精査して書き直し、2023年に「現代ベトナム語の類別詞研究: 類別詞の本質とその意味・用法」という日本語の専門書を出版しました。Amazonでも購入できますので、ベトナム語の研究者や教師・学習者の方々に活用していただければ幸いです。 ドンア大学について 最後に副学長兼学部長としてドンア大学日本言語文化学部について紹介します。当学部では次のような点を重視して日本語教育を行っています。 日本語を「読む・書く・聞く・話す」ために必要な基礎学力と専門知識を養い、日本語で考える力や日本語コミュニケーション力の向上を目指しています。 日本文化を深く多角的に理解する人材を育てるため、インターンシップや文化交流、交換留学などのプログラムを充実させています。 ダナンの日系企業で見学や研修を行い、日本語を活かした仕事への理解や日本語コミュニケーション力の向上に努めています。 こうしたプログラムには、私や教師陣の留学経験も活かされています。
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VOL. 88 支援団体の支援で在留延長と再就職
作業の準備・後片付け(毎日約2時間)に残業代が支払われないなど、建設の技能実習生の平均よりかなり低い給料で働かされたうえ、職場での暴力・暴言もあって失踪したフイさん。一度は日本が大嫌いになりましたが、支援団体のサポートで日本滞在を延長して働き、特定技能の試験にも合格しました。 今回の先輩 カ・チャン・ホアン・フイさん 2013年高校卒業〈ホーチミン市〉 2013年観光バスの添乗員〈タイニン省〉 2016年トラック運転手〈ロンアン省〉 2019年送出機関で勉強〈ホーチミン市〉 2019年来日→講習→技能実習〈山梨県〉 2020年失踪し、友人宅に4カ月間滞在〈東京〉 2021年日越ともいき支援会で保護〈東京〉 2021年アルバイト〈北海道、長野、鹿児島〉 2022年一時帰国 〈1995年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 • 日本語をほとんど学ばずに来日 • コンクリート関係の仕事 • 長い移動時間に睡眠禁止 • 十分にもらえなかった残業代 • 私の家計簿 • 低賃金と暴力・暴言 • 組合に相談しても改善せず • 失踪中の生活 •「日越ともいき支援会」に助けられ • 漁業やレストランでアルバイト • これからも日本で働く 日本語をほとんど学ばずに来日 私は高校を出て、観光バスの添乗員やトラック運転手をしていましたが、毎月の給料は約7,000,000 VNDしかありませんでした。そんなとき、いとこが日本に技能実習に行って順調に働いていたので、私も出稼ぎのために技能実習をすることになりました。 私は送出機関に登録し、会社の面接を待ちながら日本語で自己紹介をする練習をしました。2019年4月に面接に合格後、きちんとした日本語の授業を受けましたが、それは3カ月間だけだったので、ほとんど日本語が分からない状態で日本に行きました。送出機関には132,000,000VND(当時のレートで約65万円)を支払い、これ以外に寮費や食費(外食)なども必要でした。 コンクリート関係の仕事 生コンクリートを送り込むトラック(イメージ写真) こうして私は2019年7月に来日し、翌月からコンクリート関係の技能実習を始めました。勤務先は山梨県の会社で、大きなトラックが数台ありました。トラックの荷台には折りたたみ式のアームとホースが付いており、工事現場でこれらを伸ばして、離れた場所や高い場所に生コンクリート(生コン)を流し込みます。ミキサー車で作った生コンをトラックのポンプとホースで建築物に送り込むのです。 私たちの作業(イメージ写真) 私たち技能実習生は生コンを流し込む場所にホースの先を運びました。その後、生コンを床に流し込むときはホースを置いて固定できますが、壁などに流し込む場合は、私たちがホースを肩に担いで2、3時間立ち続けました。太いホースは2人で担ぎ、細いホースは1人で担ぎますが、細いホースでもかなり重く、担ぎ続けるのはきつい仕事でした。 長い移動時間に睡眠禁止 私たちの平均的な1日はこうでした。 4:30 起床 5:00 トラック6、7台で会社(私たちの寮の隣)を出発。現場まで平均1時間~1時間半。 6:00~6:30 現場到着。仕事の準備(平均1時間)。準備が早く終われば休憩。 8:00~17:00 仕事(途中で3回・計90分休憩) 17:00 後片付けなど 18:00 現場を出発 19:00~19:30 帰宅 現場への往復は、トラック1台に3人(日本人1人、ベトナム人2人)が乗り、日本人が運転しました。しかし、私たちが何か話すと日本人が怒り、眠っても怒られるので、私たちは車内でずっと黙って景色を眺めていました。技能実習生はSIMを持っていないので車内では携帯電話も使えず、移動時間はとても退屈で疲れました。 十分にもらえなかった残業代 external link KOKORO|給与、残業代、有給休暇 会社から現場まで片道3、4時間かかることもありました。しかし、往復6~8時間の移動が毎日続いても、手当はまったく増えませんでした。また、それ以外にも次のようなことがありました。 ①毎日忙しく、昼の休憩なしで働き続けることが2日に1回ほどありました。しかし、昼の休憩(1時間)をつぶして働いても残業代は増えませんでした。 ②毎日、準備と後片付けで平均2時間働きましたが、この時間にも残業代が支払われませんでした。 準備以外の正規の作業時間が延びることもありましたが、私たちがもらった残業代(毎月5時間分)はそれすらカバーできない額でした。このため手取り給料は9~10万円しかありませんでした。 私の家計簿(1カ月の平均) ※今の職場での家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:100,000円 給料 ¥100,000 *税金や社会保険、寮費、光熱費などを引いた手取り給料 *寮費(15,000円)、電気・ガス・水道(6,000円) 支出:45,000円 食費(主に自炊) ¥30,000 生活雑貨、衣類 ¥10,000 交際費など雑費 ¥5,000 毎月の差額:55,000円 低賃金と暴力・暴言 私はベトナムでこの会社の社長に面接(通訳付き)をしてもらったとき、毎月18万円もらえると聞きました。しかし、来日して先輩に聞くと、手取り18万円もらえたのは1回だけだったそうです。 移動時間が長く、仕事内容は過酷で、残業代も十分に支払われないうえ、一緒に働く日本人の一部(3人)は気に入らないことがあるとすぐに怒鳴りました。私はラチェットレンチという工具で頭をたたかれたことも2回あり、ヘルメットをかぶっていても大変な衝撃でした。私はこのような理不尽な職場に失望し、失踪することにしました。 組合に相談しても改善せず 左:仕事で毎日顔が汚れました。右:疲れて休憩時間に現場で眠る先輩。 技能実習では監理団体(組合)が実習生のケアをします。組合の担当者はベトナム人通訳を伴って毎月2回、会社に来ましたが、私たちとの面談には毎回、会社幹部が立ち会いました。組合によっては、正社員の通訳が実習生の悩みを直接聞くシステムもありますが、この組合の通訳は毎回違う人(アルバイト)で、頼りになりませんでした。私たちは残業代不払いや移動時間に眠れないことなどを改善してほしいと組合に何度かお願いしましたが、何ひとつ改善されませんでした。 失踪中の生活 こうして、私はこの会社で働き始めて13カ月目の2020年9月、現金20万円と小さな荷物を持って会社を去りました。社長に告げ口されると困るので、ほかの実習生2人にも黙って失踪しました。 思い描いていた日本とは違ったので、私は一刻も早くベトナムに帰りたいと思いました。しかし、新型コロナの影響でベトナムへの航空券が手に入らなかったので、チケットが取れるまで友人のミン君(仮名)の家に泊めてもらうことにしました。彼は日本で知り合った友人で、別の会社を失踪し、東京に住んでいました。私は電車を約3時間乗り継いで彼のところに行きました。彼は不法就労をしている様子でしたが、私は早く帰国したいので働きませんでした。しかし、航空券はなかなか買えず、2021年1月に入ると、所持金は約5万円しか残っていませんでした。 「日越ともいき支援会」に助けられ external link KOKORO|日越ともいき支援会 そんなとき、ミン君が「NPO法人日越ともいき支援会」のことを聞いて私に教えてくれました。2021年1月、私は支援会にベトナム語でメッセージを送り、事務所を訪ねました。すると、その日から支援会のシェルターに無料で住めることになり、数十人の元実習生と共同生活を送りました。 私は支援会で約2カ月間、毎日、日本語の授業を受け、自習も何時間もしました。その間、支援会は外国人技能実習機構(OTIT)や以前の組合、入管と連絡を取り、私が日本に残って働くためのさまざまな打ち合わせや手続きをしてくれました。おかげで私は新型コロナに関連する特例の在留資格を取得できました。この在留資格の期間は6カ月でしたが、その後2回更新でき、私は日本で約1年半、アルバイトをすることができました。 漁業やレストランでアルバイト 左:ホタテ貝。右:軽井沢。 ホタテの養殖 日本に残って働けることになった私は、支援会の紹介で北海道のホタテ養殖業者で2021年3月から3カ月間アルバイトをすることになりました。小さなホタテ貝を海から引き上げ、貝がらに穴を開けて糸でつなげるのが主な仕事で、主に陸で働き、ときどき船に乗りました。 レストラン ホタテ養殖の繁忙期が終わり、東京に戻って支援会などに泊めてもらった後、9月から3カ月間、長野県・軽井沢の高級レストランで働きました。野菜を切ったり皿を洗ったりする仕事で、まかない(従業員向けの食事)を1日3食食べられるのが魅力でした。軽井沢は有名なリゾート地なので、休みの日には、別の店で働くベトナム人と一緒に町を散策しました。 ラーメン店 3つめのアルバイトは鹿児島県のラーメン店「田所商店」で、仕込み(野菜やチャーシューを切る)、麺(めん)をゆでる、食材を炒(いた)める、スープを作る、皿洗いなど幅広い仕事を担当しました。全国展開の人気店で、私はこの店で2021年12月の新規オープンから約9カ月間働きました。一緒に働いた日本人は皆さん親切で、来日してから一番働きやすい職場でした。 これからも日本で働く 私は北海道のアルバイトから長野県のアルバイトに移る間、日越ともいき支援会に泊めてもらったほか、JP MIRAI(JICAなど主催)が東京で開いた元技能実習生向け研修会に参加しました。約1カ月半に渡ってJICAの施設に住み、日本語の授業を受けたり、今後のキャリアについて学んだりしました。 日越ともいき支援会のおかげで、私は引き続き日本で働く方法があることを知りました。そして、JFT-Basicで238点を取り、特定技能「外食業」の技能試験にも合格しました。そこで、2022年9月にいったんベトナムに帰国し、特定技能の在留資格を申請中です。特定技能外国人として再び来日したら、これまでと同じラーメン店で働きます。これまでの日本滞在では、来日前に借りたお金を返すのが精一杯だったので、今度こそしっかり貯金したいと思います。