体験談(留学・高度)

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By KOKORO(毎日新聞社+VAIJ主催、在ベトナム日本国大使館など後援)

今回の先輩

ルオン・スィ・タンさん
  • 2008年タンプー高校 卒業〈ハティン県〉
  • 2008年ハノイ工科大学入学
  • 2013年ハノイ工科大学卒業
  • 2013年Y-Tec Vietnam入社〈ベトナム、日本〉
  • 2016年Recruit R&D Staffing入社〈群馬県〉
  • 2017年AZA engineering入社〈神奈川県〉
  • 2020年NPテック入社〈大阪〉
  •  
  • 2017年日本語能力試験N2合格

〈1990年生まれ、ハティン省出身〉

Luongsytan90@gmail.com

日系企業の長期研修で初めて訪日後、再就職の面接は日本語で受け、その後4年以上日本に住み続けているタンさん。日本語初心者の妻を日本に呼び寄せ、最初は苦労したが、親切な日本人や無料日本語教室のベトナム人仲間に支えられた。エンジニア、タンさんの体験談を紹介する。

いとこの活躍で日本に関心

Y-Tec Vietnamの仲間たち〈東京で2014年1月〉

私は2020年5月から、9歳年上のいとこが経営する大阪の金属加工会社で働いています。いとこは2007年にエンジニアとして訪日し、私は彼の活躍について叔父から聞かされていました。そこで、自分も日本で働いてみたいと思い、大学卒業後の2013年、日本での長期研修があるハイフォンの日系企業に入りました。

当時、外国で成功するベトナム人が増え始めており、大学の先生も私の訪日に賛成してくれました。私は人材会社の紹介で自動車部品メーカー、Y-Tec Vietnamに入りました。ただ、日本語の準備は、大学卒業前に日本語教室に3カ月間通っただけでした。

日系企業の研修で初訪日

ベトナム人の同僚と京都旅行〈2014年5月〉

入社して5カ月後の2013年12月、私は親会社で研修するために初めて日本に行きました。Y-Tec Vietnamは新会社で、ベトナム人18人(エンジニア13人、通訳3人、総務・経理2人)と日本人3人でのスタートでした。このうちベトナム人16人が将来の業務に備えて日本で10カ月間、研修を受けたのです。

住居は埼玉県内の会社施設でした。16人は仲がよく、いつも一緒に行動しました。当時は日本のベトナム人は少なく、身近な仲間が頼りでした。休日にはみんなで観光にも出かけました。

ベトナム人の同僚とテト祝い〈2014年2月〉

富士山〈2014年8月〉

事業縮小で大量退職

日本人社員に連れられてベトナム人の同僚と地域の祭りに参加。居心地のよい会社でした。〈埼玉県で2014年7月〉

研修は充実していましたが、施設は都会から遠く、生活は退屈でした。そんな私たちを気遣って会社が毎月、私たちをバスで日帰り旅行に連れて行ってくれました。日本人社員もみな親切で、とてもいい会社でした。

研修から帰国後、私はハイフォンで10カ月間働き、2015年7月にまた日本に行きました。日本人エンジニアをサポートしながら技術を習得する目的でした。このときは、ベトナム人エンジニア4人と通訳1人だけで、6カ月間の滞在でした。しかし、この滞在中にY-Tec Vietnamの事業縮小が決まり、当時多数いたエンジニアの大半が解雇されました。私も2015年末の帰国後に退社し、同社勤務は2年半で終わりました。

転職、結婚、3回目の訪日

結婚〈ハティン省で2016年3月〉

Y-Tec Vietnamを退職後は、退職仲間で情報交換をしながら新しい仕事を探しました。私は2016年3月、「リクルートR&Dスタッフィング」への就職が決まりました。面接(日本語)はハノイで受けましたが、勤務地は日本です。再就職が決まった直後に高校の同級生だった妻と結婚し、4月に日本に赴任しました。このときから現在までずっと日本に住むことになります。赴任して4カ月後に妻も日本に呼び寄せました。

再就職して日本に赴任直後、大学の同級生と大阪旅行〈2016年5月〉

訪日後、研修を経て自動車部品メーカーで働くことになりました。就労形態は派遣でした。勤務地は群馬県の工場で、私の仕事は外装部品の設計でした。ただ、発注元の車のリコールが影響して途中から受注が激減し、残業も減りました。このことや、派遣ではなく1カ所で長く働きたいという希望もあり、1年半でまた転職しました。

日本で転職2回

今の職場で家族交流会〈大阪で2020年8月〉

派遣会社を退職後、Indeed(日本語)というサイトで見つけた仕事に応募し、2017年10月から「AZAエンジニアリング」で働き始めました。神奈川県の機械設計会社で、約30人の従業員の中で外国人は私だけでした。先輩も同僚も親切で、いい会社でしたが、2020年にいとこが大阪に会社を設立することになり、エンジニアが必要なので同社を手伝うことになりました。同社ではベトナム人が5人、日本人が2人います。

私の家計簿(1カ月の平均)

※現在の家計簿※100円=22,128ドン(2020年10月27日現在)

収入(合計240,000円)
手取り給料

140,000円

※税金、社会保険、寮費を差引後

※寮は2階建て。4DK。

妻のパート

100,000円

※工場で製品検査業務

支出(合計135,000円)
家賃

42,000円

水道・光熱費

13,000円

食費

50,000円

公立幼稚園

10,000円

雑費

20,000円

※ガソリン・高速道路など

差額・貯金(合計105,000円)
差額

105,000円

※大半を実家に送金。妹の大学の学費や生活費を支援。自分たちの貯金はあまりない。

日本語学習の手法

日本で長く暮らすには日本語習得が必須です。私の日本語学習の要点をお伝えします。

【学習機会】 ・会社でベトナム人通訳が教える日本語教室(最初の3カ月間のみ) ・仕事で日本語使用地域のボランティア日本語教室(週1~3回)家で毎晩、勉強

【主な教材】 ・みんなの日本語▽「日本語総まとめ」シリーズ▽「耳から覚える日本語能力試験」シリーズ▽NIHONGONOMORI(YouTube) Link:【特集】N1・N2合格者たちの勉強法(ツール編)

夫婦で日本社会に助けられ

左:日本語教室の先生が持ってきてくれた着物〈群馬県の自宅で2016年〉
右:転居先の自宅で。先生方とは転居後も交流〈2017年〉

妻は2016年8月に日本で合流し、間もなく妊娠しましたが、最初は日本語が分からず苦労しました。週末は私がいますが、平日は周囲にベトナム人仲間がいません。そんな妻を助けてくださったのはボランティア日本語教室の日本人の先生方でした。

妻は当初、約5㌔離れた教室に自転車で週2回通いました。年配の女性の先生2人は日本語を教えるだけではなく、妻を気遣って通院や買い物にも付き添ってくださいました。そして、妻のおなかが大きくなって教室に通えなくなると、交代でわが家に来て日本語を教え、さまざまなサポートもしてくださいました。私たちは本当に助かり、この先生方を恩人だと思っています。

日本での仲間づくり

Y-Tec Vietnamに残った元同僚たちとは長く交流〈埼玉県で2018年〉

私たちが最初に住んだ群馬県では、当時ベトナム人が少なく、ベトナム人向けの情報もあまりありませんでした。職場でも外国人は私だけでした。ベトナム人仲間を作る機会が少なく、妻は最初さびしがりました。Y-Tec Vietnamの後輩で解雇されずに残っていたベトナム人が隣の埼玉県に少しいたので、妻を連れてたまに会いに行きましたが、普段は日本語教室の先生たちとの交流が頼りでした。

日本語教室のベトナム人仲間の家で食事会〈神奈川県で2018年〉

しかし、神奈川県に移ってからは、ベトナム人の友だちがたくさんできました。ここでも職場で外国人は私だけでしたが、ボランティア日本語教室で同じ境遇のベトナム人3家族と出会いました。これが交流の基点となり、妻の「ママ友」もできました。大阪に移ってからは、仲間がさらに増えました。ベトナム語を使う機会が急増し、ベトナムに住んでいるような感覚です。また、私は訪日後ずっと、職場や地域のベトナム人とサッカーチームを作り、週末に練習や試合を楽しんでいます。

日本のここが好き

置き忘れ〈イメージ図〉

私は日本の治安の良さや日本人の親切が好きです。私はある日、Y-Tec Vietnamのバス旅行で旅先の展望台にかばんを置き忘れました。かばんの中には携帯電話や財布が入っていました。会社に戻って気づくと、会社の人が展望台周辺の関係者に連絡し、かばんが届いていないか、または元の場所に置かれたままになっていないか、問い合わせてくれました。すると、かばんが無事に見つかり、2日後に会社に郵送されてきました。財布の中の現金(約20,000円)も携帯電話もそのままでした。

また、その数年後にも電車内にかばんを置き忘れてしまいました。下車後に気付き、近くの大きな駅に行って駅員さんにお願いしたところ、このときもかばんが返ってきました。中には仕事の資料や財布が入っていましたが、やはり無事でした。

日本での暮らし

今の大阪の職場で〈2020年10月〉

私は3年前に自動車教習所に通って日本の運転免許を取得し、中古車も買いました。教習は約30万円、車は約25万円でしたが、家族と郊外で長く暮らすにはマイカーが欠かせません。日本の工業技術は先進的で、いつか帰国した際に私の知識・技術が祖国の役に立つかも知れません。ただ、いつまで日本に住むかはまだ決めていません。日本では、医療が進んでいますし、農薬が少なく食べ物も安全で大気汚染も少ないので、子どもが大きくなるまでは日本にいる方がよいかも知れません。先のことは分かりませんが、当面は目の前の仕事や生活に集中したいと思っています。

いとこ家族と日帰り旅行〈奈良県で2020年〉

娘と雪遊び〈神奈川県で2020年〉

今回の先輩

Lương Sỹ Tân(ルオン・スィ・タン)さん

  • 2008年タンプー高校 卒業〈ハティン〉
  • 2008年ハノイ工科大学入学
  • 2013年ハノイ工科大学卒業
  • 2013年Y-Tec Vietnam入社〈ベトナム、日本〉
  • 2016年Recruit R&D Staffing入社〈群馬県〉
  • 2017年AZA engineering入社〈神奈川県〉
  • 2020年NPテック入社〈大阪府〉
  • 2017年日本語能力試験N2合格

〈1990年生まれ、ハティン省出身〉

Luongsytan90@gmail.com

日系企業の長期研修で初めて訪日後、再就職の面接は日本語で受け、その後4年以上日本に住み続けているタンさん。日本語初心者の妻を日本に呼び寄せ、最初は苦労したが、親切な日本人や無料日本語教室のベトナム人仲間に支えられた。エンジニア、タンさんの体験談を紹介する。

いとこの活躍で日本に関心

私は2020年5月から、9歳年上のいとこが経営する大阪の金属加工会社で働いています。いとこは2007年にエンジニアとして訪日し、私は彼の活躍について叔父から聞かされていました。そこで、自分も日本で働いてみたいと思い、大学卒業後の2013年、日本での長期研修があるハイフォンの日系企業に入りました。

当時、外国で成功するベトナム人が増え始めており、大学の先生も私の訪日に賛成してくれました。私は人材会社の紹介で自動車部品メーカー、Y-Tec Vietnamに入りました。ただ、日本語の準備は、大学卒業前に日本語教室に3カ月間通っただけでした。

Y-Tec Vietnamの仲間たち〈東京で2014年1月〉

日系企業の研修で初訪日

入社して5カ月後の2013年12月、私は親会社で研修するために初めて日本に行きました。Y-Tec Vietnamは新会社で、ベトナム人18人(エンジニア13人、通訳3人、総務・経理2人)と日本人3人でのスタートでした。このうちベトナム人16人が将来の業務に備えて日本で10カ月間、研修を受けたのです。

住居は埼玉県内の会社施設でした。16人は仲がよく、いつも一緒に行動しました。当時は日本のベトナム人は少なく、身近な仲間が頼りでした。休日にはみんなで観光にも出かけました。

ベトナム人の同僚と京都旅行〈2014年5月〉

ベトナム人の同僚とテト祝い〈2014年2月〉

富士山〈2014年8月〉

事業縮小で大量退職

研修は充実していましたが、施設は都会から遠く、生活は退屈でした。そんな私たちを気遣って会社が毎月、私たちをバスで日帰り旅行に連れて行ってくれました。日本人社員もみな親切で、とてもいい会社でした。

研修から帰国後、私はハイフォンで10カ月間働き、2015年7月にまた日本に行きました。日本人エンジニアをサポートしながら技術を習得する目的でした。このときは、ベトナム人エンジニア4人と通訳1人だけで、6カ月間の滞在でした。しかし、この滞在中にY-Tec Vietnamの事業縮小が決まり、当時多数いたエンジニアの大半が解雇されました。私も2015年末の帰国後に退社し、同社勤務は2年半で終わりました。

日本人社員に連れられてベトナム人の同僚と地域の祭りに参加。居心地のよい会社でした。〈埼玉県で2014年7月〉

転職、結婚、3回目の訪日

Y-Tec Vietnamを退職後は、退職仲間で情報交換をしながら新しい仕事を探しました。私は2016年3月、「リクルートR&Dスタッフィング」への就職が決まりました。面接(日本語)はハノイで受けましたが、勤務地は日本です。再就職が決まった直後に高校の同級生だった妻と結婚し、4月に日本に赴任しました。このときから現在までずっと日本に住むことになります。赴任して4カ月後に妻も日本に呼び寄せました。

結婚〈ハティン省で2016年3月〉

訪日後、研修を経て自動車部品メーカーで働くことになりました。就労形態は派遣でした。勤務地は群馬県の工場で、私の仕事は外装部品の設計でした。ただ、発注元の車のリコールが影響して途中から受注が激減し、残業も減りました。このことや、派遣ではなく1カ所で長く働きたいという希望もあり、1年半でまた転職しました。

再就職して日本に赴任直後、大学の同級生と大阪旅行〈2016年5月〉

日本で転職2回

派遣会社を退職後、Indeed(日本語)というサイトで見つけた仕事に応募し、2017年10月から「AZAエンジニアリング」で働き始めました。神奈川県の機械設計会社で、約30人の従業員の中で外国人は私だけでした。先輩も同僚も親切で、いい会社でしたが、2020年にいとこが大阪に会社を設立することになり、エンジニアが必要なので同社を手伝うことになりました。同社ではベトナム人が5人、日本人が2人います。

今の職場で家族交流会〈大阪で2020年8月〉

私の家計簿(1カ月の平均)

※現在の家計簿

※100円=22,128ドン(2020年10月27日現在)

収入(合計240,000円)
手取り給料

140,000円

※税金、社会保険、寮費を差引後

※寮は2階建て。4DK。

妻のパート

100,000円

※工場で製品検査業務

支出(合計135,000円)
家賃

42,000円

水道・光熱費

13,000円

食費

50,000円

公立幼稚園

10,000円

雑費

20,000円

※ガソリン・高速道路など

差額・貯金(合計105,000円)
差額

105,000円

※大半を実家に送金。妹の大学の学費や生活費を支援。自分たちの貯金はあまりない。

日本語学習の手法

日本で長く暮らすには日本語習得が必須です。私の日本語学習の要点をお伝えします。

【学習機会】 ・会社でベトナム人通訳が教える日本語教室(最初の3カ月間のみ) ・仕事で日本語使用地域のボランティア日本語教室(週1~3回)家で毎晩、勉強

【主な教材】 ・みんなの日本語▽「日本語総まとめ」シリーズ▽「耳から覚える日本語能力試験」シリーズ▽NIHONGONOMORI(YouTube) Link:【特集】N1・N2合格者たちの勉強法(ツール編)

夫婦で日本社会に助けられ

妻は2016年8月に日本で合流し、間もなく妊娠しましたが、最初は日本語が分からず苦労しました。週末は私がいますが、平日は周囲にベトナム人仲間がいません。そんな妻を助けてくださったのはボランティア日本語教室の日本人の先生方でした。

妻は当初、約5㌔離れた教室に自転車で週2回通いました。年配の女性の先生2人は日本語を教えるだけではなく、妻を気遣って通院や買い物にも付き添ってくださいました。そして、妻のおなかが大きくなって教室に通えなくなると、交代でわが家に来て日本語を教え、さまざまなサポートもしてくださいました。私たちは本当に助かり、この先生方を恩人だと思っています。

左:日本語教室の先生が持ってきてくれた着物〈群馬県の自宅で2016年〉;右:転居先の自宅で。先生方とは転居後も交流〈2017年〉

日本での仲間づくり

私たちが最初に住んだ群馬県では、当時ベトナム人が少なく、ベトナム人向けの情報もあまりありませんでした。職場でも外国人は私だけでした。ベトナム人仲間を作る機会が少なく、妻は最初さびしがりました。Y-Tec Vietnamの後輩で解雇されずに残っていたベトナム人が隣の埼玉県に少しいたので、妻を連れてたまに会いに行きましたが、普段は日本語教室の先生たちとの交流が頼りでした。

Y-Tec Vietnamに残った元同僚たちとは長く交流〈埼玉県で2018年〉

しかし、神奈川県に移ってからは、ベトナム人の友だちがたくさんできました。ここでも職場で外国人は私だけでしたが、ボランティア日本語教室で同じ境遇のベトナム人3家族と出会いました。これが交流の基点となり、妻の「ママ友」もできました。大阪に移ってからは、仲間がさらに増えました。ベトナム語を使う機会が急増し、ベトナムに住んでいるような感覚です。また、私は訪日後ずっと、職場や地域のベトナム人とサッカーチームを作り、週末に練習や試合を楽しんでいます。

日本語教室のベトナム人仲間の家で食事会〈神奈川県で2018年〉

日本のここが好き

私は日本の治安の良さや日本人の親切が好きです。私はある日、Y-Tec Vietnamのバス旅行で旅先の展望台にかばんを置き忘れました。かばんの中には携帯電話や財布が入っていました。会社に戻って気づくと、会社の人が展望台周辺の関係者に連絡し、かばんが届いていないか、または元の場所に置かれたままになっていないか、問い合わせてくれました。すると、かばんが無事に見つかり、2日後に会社に郵送されてきました。財布の中の現金(約20,000円)も携帯電話もそのままでした。

また、その数年後にも電車内にかばんを置き忘れてしまいました。下車後に気付き、近くの大きな駅に行って駅員さんにお願いしたところ、このときもかばんが返ってきました。中には仕事の資料や財布が入っていましたが、やはり無事でした。

置き忘れ〈イメージ図〉

日本での暮らし

私は3年前に自動車教習所に通って日本の運転免許を取得し、中古車も買いました。教習は約30万円、車は約25万円でしたが、家族と郊外で長く暮らすにはマイカーが欠かせません。日本の工業技術は先進的で、いつか帰国した際に私の知識・技術が祖国の役に立つかも知れません。ただ、いつまで日本に住むかはまだ決めていません。日本では、医療が進んでいますし、農薬が少なく食べ物も安全で大気汚染も少ないので、子どもが大きくなるまでは日本にいる方がよいかも知れません。先のことは分かりませんが、当面は目の前の仕事や生活に集中したいと思っています。

今の大阪の職場で〈2020年10月〉

いとこ家族と日帰り旅行〈奈良県で2020年〉

娘と雪遊び〈神奈川県で2020年〉