体験談(留学・高度)

vol92_1
By KOKORO(毎日新聞社+VAIJ主催、在ベトナム日本国大使館など後援)

ベトナムから海外留学する人がまだ少なかった1990年代に日本に留学したニエンさん。留学仲間の夫が沖縄で就職したため彼女も沖縄に長く住むことになり、その間に日本の文学小説をたくさん翻訳し、ベトナムで出版。最近は、沖縄に住むベトナム人技能実習生たちのサポートにも力を入れています。

今回の先輩

グエン・ド・アン・二エンさん

  • 1994年ホーチミン国家大学東洋学部入学
  • 1997年名桜大学で交換留学〈沖縄、1年間〉
  • 1999年ホーチミン国家大学卒業
  • 1999年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈2年間〉
  • 2001年名桜大学大学院修士課程入学
  • 2003年修士課程修了
  • 2003年大阪府立国際児童文学館外国人研究員〈6カ月〉
  • 2004年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈4年間〉
  • 2004年TRE出版社で日本語通訳・翻訳〈4年間〉
  • 2011年名桜大学附属図書館でアルバイト〈5年間〉
  • 2011年名桜大学非常勤講師〈現在も〉
  • 2022年沖縄大学非常勤講師〈現在も〉
〈1976年生まれ、ホーチミン市出身〉

交換留学で沖縄へ

来日前に知り合った京都の日本人の家で着物体験〈1998年1月〉

私はもともと医学部に行きたかったのですが、高校3年のときは医学部の受験準備が十分にできていなかったので、入れる学部に入って受験勉強を続けようと思って東洋学部に入りました。高校の授業で川端康成の作品をベトナム語で読み、いつか日本語で読みたいと思っていたので、新設されて2年目だった東洋学部を選びました。その後、医学部は断念し、日本語を極めることにしました。

大学在学中、成績優秀者4人が名桜(めいおう)大学に交換留学できることになり、私もその1人に選ばれました。そして、日本での授業料や飛行機代、毎月の生活費(8万円)を日本政府から支給してもらいました。ただし、ベトナムの大学と提携している日本の大学が当時はまだ少なかったので、ほかの大学は選べませんでした。

国際交流基金の制度で2度目の留学

国際交流基金のイベントで沖縄のテレビ局が私にインタビュー

交換留学から帰国して1年後の1999年、私は東洋学部を卒業し、その学部の日本語講師になりました。すると、若手講師向けに日本の国際交流基金のフェローシップの募集があり、応募して合格しました。毎月24万円を1年間支給され、大学院の授業料も払ってもらえるという制度でした。

私はこの制度を使って2001年6月に名桜大学総合研究所の研究員となり、10月からは大学院にも入りました(研究員と大学院生の兼務)。最初は研究員として1年勉強したら帰国するつもりでしたが、名桜大の教官の勧めで2年目も大学院に残り、貯金とアルバイトで生活しました。大学院では宮澤賢治(昔の有名作家)を研究し、修了後も半年間、大阪府立国際児童文学館の研究員として研究を続けました。

留学中の生活

大阪に住んだときに、私を娘のようにかわいがってくれた「日本のお母さん」

交換留学のときや大学院2年目はアルバイトもしました。それは皿洗いやスーパーマーケットのレジ担当、大学図書館のカウンター業務などでした。当時はインターネットがあまり普及していなかったので、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話するというパターンでした。

住まいは交換留学のときも大学院のときも大学の寮で、他国からの留学生もいたので、一緒に食事をしたり地域行事に参加したりしました。 また、学内の「留学生センター」に談話室があり、ここでも各国からの留学生と日本語で交流できました。もちろん、自分から話しかけて日本人の友だちも作り、ネイティブの日本人と会話する機会もたくさん作りました。

私の家計簿(1カ月の平均)

※大学院2年目の家計簿(2001~2002年)

※100円=約17,521 VND(2023年4月15日現在))

収入:110,000円~130,000円
アルバイト 110,000円~130,000円
※アルバイト2件(スーパーのレジ、図書館)
支出:91,000円
1カ月分の学費(年2回納付) 50,000円
家賃 10,000円
※大学の寮
水道・電気・ガス 5,000円
食費(主に自炊) 15,000円
携帯電話 1,000円
雑費 10,000円
※外食など
毎月の差額:平均3万円
※大学院1年目の貯金や夏休みなどの長期休暇時に長く働いて貯めたお金で毎月の不足を解消。

夫の就職がもとで沖縄在住

家族で長年暮らした沖縄県名護市

私が沖縄に長く住むことになったのは、夫が沖縄で就職したことが原因です。夫は私の東洋学部の同級生で、私より半年遅れで名桜大学の大学院で留学を始めました。

私は夫より半年先に大学院を修了し、半年間の大阪勤務を経て2004年3月に帰国して大学の日本語講師に戻りました。同じころ、夫は沖縄の会社に就職。その10カ月後の2005年1月、私たちは結婚し、夏休みとテト(ベトナムの旧正月)に私が沖縄の夫を訪ね、普段はインターネットのメッセージボード(チャット)で連絡を取り合う「遠距離結婚」が3年間続きました。当時はSNSもありませんでした。その後、長女が2歳になろうとしていた2008年、家族一緒に暮らすために私が仕事を辞め、娘と一緒に沖縄に移り住みました。そして、沖縄で次女が生まれました。

保育園の心やさしい先生たち

日本の「キャラ弁」(イメージ写真)

私は沖縄で2人の娘を5年ずつ保育園に預けました。娘たちは保育園に弁当を持って行きますが、日本では、アニメキャラクターをデザインした「キャラ弁」という手のこんだ弁当がはやっています。私は弁当の本を読んで「こんな難しいお弁当、私には作れない」と悩み、保育園の先生に相談しました。すると、先生は「難しいお弁当を作らなくても、お母さん(あなた)の作れるお弁当でいいんですよ」と励ましてくれました。

また、異国で育児をしているので、子どもが病気になったり、何かトラブルに直面したりすると、とても緊張しました。このため、心に余裕がなくなっていましたが、夏休みにベトナムに一時帰国することを先生に伝えると、先生は「帰国したら、あなたもあなたのお母さんにたくさん甘えてね」と言ってくださり、私は涙が出そうになりました。娘だけでなく母親の私のことも気にかけてくださる先生の思いやりに心を打たれたのです。

先生と子どもたちとの会話やスキンシップも多かったようで、娘たちも先生たちによくなつきました。先生は毎年変わりますが、どの先生も思いやり深く、長女も二女も保育園が大好きでした。日本の七夕(たなばた)では、願いごとを書いた短冊(たんざく)をササの葉に結びつけますが、娘は「先生に彼氏ができますように」と書いていました。

娘2人が計10年間お世話になったこともあり、私は二女の卒園式で保護者代表としてあいさつをさせていただきました。私は先生方への感謝と思い出が胸にあふれ、泣きながらあいさつをしました。また、お母さんたちにも親切な人が多く、とても恵まれた保育園生活でした。沖縄は土地の雰囲気もやわらかく、人の心に余裕があるのかも知れません。

日本で大学講師

名桜大学で私の講義の受講生らと(授業は対面+オンライン)

私は2008年に沖縄に移ってから3年間は専業主婦でしたが、次女も保育園に通い始めた2011年、大学院時代にアルバイトをした名桜大の図書館で再び働き始めました。 また、その年から、留学時代の指導教官の推薦で名桜大の非常勤講師として「ベトナム事情」という講義(週1コマ)も担当しています。さらに、2019年からはこの大学でベトナム語(週1コマ)も教え、2022年から沖縄大学でもベトナム語(週2コマ)を教えています。

日本の文学作品を約20冊翻訳

私が翻訳した「文明論の概略」(左)と「宮澤賢治短編集」

私はベトナムの大学の卒業論文で作家の宮澤賢治を取り上げた際、「銀河鉄道の夜」という彼の有名な作品を翻訳しました。その後、大学院と大阪の研究所でも宮澤賢治を研究し、賢治への理解も私の日本語力も深まったので、「銀河鉄道の夜」を翻訳し直し、ベトナムの人たちにも読んでもらいたいと考えました。そこで、日本の出版社に問い合わせて著作権について確認した後、ベトナムの出版社に持ちかけてベトナム語版の出版が実現しました。

これがきっかけで、その後も日本の文学作品などをときどき翻訳するようになり、これまでに約20冊を翻訳し、ベトナムで出版されました。その中で特に苦心して翻訳したのは、樋口一葉の「たけくらべ」や福沢諭吉の「文明論の概略」、川端康成の「千羽鶴」などでした。

沖縄のベトナム人コミュニティ

ここ数年、ベトナムから日本への技能実習生が増え、失踪する人もたくさんいます。そこで、私は地元の技能実習生たちに日本語や日本文化を教えたり、一緒に地域行事に参加したり、観光に連れて行ったりする取り組みを始めました。

日本語教室 は2019年10月に始めました。最初は、実習生を雇っている会社から頼まれて3人に教えていましたが、その後、名護市国際交流協会の教室でも教えるようになりました。そして、2020年のテトを祝って技能実習生たちを集めて食事会を開いた際に彼らから頼まれ、日本語サークルを作りました。このサークルでは、公民館などで毎週日曜に日本語を教えたり、月に1回は書道(=写真)などの文化体験をさせたりしました。

技能実習生たちと日帰り旅行

日本語学習会には多いときで12人、文化体験には約30人が参加しました。しかし、新型コロナの影響であまり集まれなくなり、2021年はオンライン日本語教室(週1回)だけになりました。こうした中から日本語能力試験(JLPT)のN3やN4に合格した生徒もいます。

また、私は地域のベトナム人たちと必要な情報を共有したり、悩みの相談に乗ったりすることも、大事だと考えています。例えば、新型コロナ対策で住民向けに割引の商品券が発行されても、多くのベトナム人はその情報を知りません。そこで、私がFacebookなどで情報を広めることもあります。また、私たちの住む名護(なご)市から沖縄の中心地・那覇(なは)市までは遠いので、私たち家族が車で那覇に行くときに実習生たちのほしいものを代わりに買ってくることもあります。沖縄に長く住んでいるので、これからも地域のベトナム人のお役に立ちたいと考えています。