体験談 | 最新ニュース
ベトナムから海外留学する人がまだ少なかった1990年代に日本に留学したニエンさん。留学仲間の夫が沖縄で就職したため彼女も沖縄に長く住むことになり、その間に日本の文学小説をたくさん翻訳し、ベトナムで出版。最近は、沖縄に住むベトナム人技能実習生たちのサポートにも力を入れています。 今回の先輩 グエン・ド・アン・二エンさん 1994年ホーチミン国家大学東洋学部入学 1997年名桜大学で交換留学〈沖縄、1年間〉 1999年ホーチミン国家大学卒業 1999年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈2年間〉 2001年名桜大学大学院修士課程入学 2003年修士課程修了 2003年大阪府立国際児童文学館外国人研究員〈6カ月〉 2004年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈4年間〉 2004年TRE出版社で日本語通訳・翻訳〈4年間〉 2011年名桜大学附属図書館でアルバイト〈5年間〉 2011年名桜大学非常勤講師〈現在も〉 2022年沖縄大学非常勤講師〈現在も〉 〈1976年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 •...
日本の携帯電話は契約制で、通信・通話料が非常に高額です。これから日本に来る人や、すでに日本で生活していて携帯電話会社(通信会社=キャリア)との新規契約や乗り換えを考えている人に、携帯電話の通信・通話サービス(SIM)を上手に選んで節約する方法をお伝えします。 〈このページの内容〉 1....
ベトナムでは、ネットショップで買った商品を職場に届けてもらうのはよくあることですが、日本ではNGです。また、日本人は長期休暇が終わった次の日から「仕事モード全開」の状態に戻ります。私はベトナムで9年間働いた経験があり、3度の日本留学を経て日本で正社員として働いています。ベトナムと日本のビジネス文化の違いをお伝えしていきます。〈Vân...
留学生がアルバイトだけで学費と生活費を稼ぐことは非常に困難です。「アルバイトで留学費用をカバーできる」とうその説明をして多額の手数料を得ようとする留学紹介会社(日本語センター)や紹介者もいます。手数料を支払う前に、留学費用に関する正しい知識を持ちましょう。 留学生の支出 奨学金や授業料減免(授業料ゼロや半額など)を受けられればよいですが、そうでなければ、アルバイトだけで学費と生活費を稼ぐことは大変困難です。 ...
日本は災害の多い国です。地震が多く、1995年に阪神大震災(死者6,334人)、2011年に東日本大震災(死者・行方不明者18,428人)が起きたほか、気象変動によって台風が大型化し、また台風以外での大雨被害もしばしば発生しており、十分な危機管理と食料や生活備品の備蓄が必要です。 災害が起こると、一瞬で店頭からものがなくなります。普段から備蓄をしましょう。 ...
留学生・技能実習生・エンジニアをサポートするサイト
【在ベトナム日本国大使館後援】
作業の準備・後片付け(毎日約2時間)に残業代が支払われないなど、建設の技能実習生の平均よりかなり低い給料で働かされたうえ、職場での暴力・暴言もあって失踪したフイさん。一度は日本が大嫌いになりましたが、支援団体のサポートで日本滞在を延長して働き、特定技能の試験にも合格しました。 今回の先輩 カ・チャン・ホアン・フイさん 2013年高校卒業〈ホーチミン市〉 2013年観光バスの添乗員〈タイニン省〉 2016年トラック運転手〈ロンアン省〉 2019年送出機関で勉強〈ホーチミン市〉 2019年来日→講習→技能実習〈山梨県〉 2020年失踪し、友人宅に4カ月間滞在〈東京〉 2021年日越ともいき支援会で保護〈東京〉 2021年アルバイト〈北海道、長野、鹿児島〉 2022年一時帰国 〈1995年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 • 日本語をほとんど学ばずに来日 • コンクリート関係の仕事 • 長い移動時間に睡眠禁止 • 十分にもらえなかった残業代 • 私の家計簿 • 低賃金と暴力・暴言 • 組合に相談しても改善せず • 失踪中の生活 •「日越ともいき支援会」に助けられ • 漁業やレストランでアルバイト • これからも日本で働く 日本語をほとんど学ばずに来日 私は高校を出て、観光バスの添乗員やトラック運転手をしていましたが、毎月の給料は約7,000,000 VNDしかありませんでした。そんなとき、いとこが日本に技能実習に行って順調に働いていたので、私も出稼ぎのために技能実習をすることになりました。 私は送出機関に登録し、会社の面接を待ちながら日本語で自己紹介をする練習をしました。2019年4月に面接に合格後、きちんとした日本語の授業を受けましたが、それは3カ月間だけだったので、ほとんど日本語が分からない状態で日本に行きました。送出機関には132,000,000VND(当時のレートで約65万円)を支払い、これ以外に寮費や食費(外食)なども必要でした。 コンクリート関係の仕事 生コンクリートを送り込むトラック(イメージ写真) こうして私は2019年7月に来日し、翌月からコンクリート関係の技能実習を始めました。勤務先は山梨県の会社で、大きなトラックが数台ありました。トラックの荷台には折りたたみ式のアームとホースが付いており、工事現場でこれらを伸ばして、離れた場所や高い場所に生コンクリート(生コン)を流し込みます。ミキサー車で作った生コンをトラックのポンプとホースで建築物に送り込むのです。 私たちの作業(イメージ写真) 私たち技能実習生は生コンを流し込む場所にホースの先を運びました。その後、生コンを床に流し込むときはホースを置いて固定できますが、壁などに流し込む場合は、私たちがホースを肩に担いで2、3時間立ち続けました。太いホースは2人で担ぎ、細いホースは1人で担ぎますが、細いホースでもかなり重く、担ぎ続けるのはきつい仕事でした。 長い移動時間に睡眠禁止 私たちの平均的な1日はこうでした。 4:30 起床 5:00 トラック6、7台で会社(私たちの寮の隣)を出発。現場まで平均1時間~1時間半。 6:00~6:30 現場到着。仕事の準備(平均1時間)。準備が早く終われば休憩。 8:00~17:00 仕事(途中で3回・計90分休憩) 17:00 後片付けなど 18:00 現場を出発 19:00~19:30 帰宅 現場への往復は、トラック1台に3人(日本人1人、ベトナム人2人)が乗り、日本人が運転しました。しかし、私たちが何か話すと日本人が怒り、眠っても怒られるので、私たちは車内でずっと黙って景色を眺めていました。技能実習生はSIMを持っていないので車内では携帯電話も使えず、移動時間はとても退屈で疲れました。 十分にもらえなかった残業代 external link KOKORO|給与、残業代、有給休暇 会社から現場まで片道3、4時間かかることもありました。しかし、往復6~8時間の移動が毎日続いても、手当はまったく増えませんでした。また、それ以外にも次のようなことがありました。 ①毎日忙しく、昼の休憩なしで働き続けることが2日に1回ほどありました。しかし、昼の休憩(1時間)をつぶして働いても残業代は増えませんでした。 ②毎日、準備と後片付けで平均2時間働きましたが、この時間にも残業代が支払われませんでした。 準備以外の正規の作業時間が延びることもありましたが、私たちがもらった残業代(毎月5時間分)はそれすらカバーできない額でした。このため手取り給料は9~10万円しかありませんでした。 私の家計簿(1カ月の平均) ※今の職場での家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:100,000円 給料 ¥100,000 *税金や社会保険、寮費、光熱費などを引いた手取り給料 *寮費(15,000円)、電気・ガス・水道(6,000円) 支出:45,000円 食費(主に自炊) ¥30,000 生活雑貨、衣類 ¥10,000 交際費など雑費 ¥5,000 毎月の差額:55,000円 低賃金と暴力・暴言 私はベトナムでこの会社の社長に面接(通訳付き)をしてもらったとき、毎月18万円もらえると聞きました。しかし、来日して先輩に聞くと、手取り18万円もらえたのは1回だけだったそうです。 移動時間が長く、仕事内容は過酷で、残業代も十分に支払われないうえ、一緒に働く日本人の一部(3人)は気に入らないことがあるとすぐに怒鳴りました。私はラチェットレンチという工具で頭をたたかれたことも2回あり、ヘルメットをかぶっていても大変な衝撃でした。私はこのような理不尽な職場に失望し、失踪することにしました。 組合に相談しても改善せず 左:仕事で毎日顔が汚れました。右:疲れて休憩時間に現場で眠る先輩。 技能実習では監理団体(組合)が実習生のケアをします。組合の担当者はベトナム人通訳を伴って毎月2回、会社に来ましたが、私たちとの面談には毎回、会社幹部が立ち会いました。組合によっては、正社員の通訳が実習生の悩みを直接聞くシステムもありますが、この組合の通訳は毎回違う人(アルバイト)で、頼りになりませんでした。私たちは残業代不払いや移動時間に眠れないことなどを改善してほしいと組合に何度かお願いしましたが、何ひとつ改善されませんでした。 失踪中の生活 こうして、私はこの会社で働き始めて13カ月目の2020年9月、現金20万円と小さな荷物を持って会社を去りました。社長に告げ口されると困るので、ほかの実習生2人にも黙って失踪しました。 思い描いていた日本とは違ったので、私は一刻も早くベトナムに帰りたいと思いました。しかし、新型コロナの影響でベトナムへの航空券が手に入らなかったので、チケットが取れるまで友人のミン君(仮名)の家に泊めてもらうことにしました。彼は日本で知り合った友人で、別の会社を失踪し、東京に住んでいました。私は電車を約3時間乗り継いで彼のところに行きました。彼は不法就労をしている様子でしたが、私は早く帰国したいので働きませんでした。しかし、航空券はなかなか買えず、2021年1月に入ると、所持金は約5万円しか残っていませんでした。 「日越ともいき支援会」に助けられ external link KOKORO|日越ともいき支援会 そんなとき、ミン君が「NPO法人日越ともいき支援会」のことを聞いて私に教えてくれました。2021年1月、私は支援会にベトナム語でメッセージを送り、事務所を訪ねました。すると、その日から支援会のシェルターに無料で住めることになり、数十人の元実習生と共同生活を送りました。 私は支援会で約2カ月間、毎日、日本語の授業を受け、自習も何時間もしました。その間、支援会は外国人技能実習機構(OTIT)や以前の組合、入管と連絡を取り、私が日本に残って働くためのさまざまな打ち合わせや手続きをしてくれました。おかげで私は新型コロナに関連する特例の在留資格を取得できました。この在留資格の期間は6カ月でしたが、その後2回更新でき、私は日本で約1年半、アルバイトをすることができました。 漁業やレストランでアルバイト 左:ホタテ貝。右:軽井沢。 ホタテの養殖 日本に残って働けることになった私は、支援会の紹介で北海道のホタテ養殖業者で2021年3月から3カ月間アルバイトをすることになりました。小さなホタテ貝を海から引き上げ、貝がらに穴を開けて糸でつなげるのが主な仕事で、主に陸で働き、ときどき船に乗りました。 レストラン ホタテ養殖の繁忙期が終わり、東京に戻って支援会などに泊めてもらった後、9月から3カ月間、長野県・軽井沢の高級レストランで働きました。野菜を切ったり皿を洗ったりする仕事で、まかない(従業員向けの食事)を1日3食食べられるのが魅力でした。軽井沢は有名なリゾート地なので、休みの日には、別の店で働くベトナム人と一緒に町を散策しました。 ラーメン店 3つめのアルバイトは鹿児島県のラーメン店「田所商店」で、仕込み(野菜やチャーシューを切る)、麺(めん)をゆでる、食材を炒(いた)める、スープを作る、皿洗いなど幅広い仕事を担当しました。全国展開の人気店で、私はこの店で2021年12月の新規オープンから約9カ月間働きました。一緒に働いた日本人は皆さん親切で、来日してから一番働きやすい職場でした。 これからも日本で働く 私は北海道のアルバイトから長野県のアルバイトに移る間、日越ともいき支援会に泊めてもらったほか、JP MIRAI(JICAなど主催)が東京で開いた元技能実習生向け研修会に参加しました。約1カ月半に渡ってJICAの施設に住み、日本語の授業を受けたり、今後のキャリアについて学んだりしました。 日越ともいき支援会のおかげで、私は引き続き日本で働く方法があることを知りました。そして、JFT-Basicで238点を取り、特定技能「外食業」の技能試験にも合格しました。そこで、2022年9月にいったんベトナムに帰国し、特定技能の在留資格を申請中です。特定技能外国人として再び来日したら、これまでと同じラーメン店で働きます。これまでの日本滞在では、来日前に借りたお金を返すのが精一杯だったので、今度こそしっかり貯金したいと思います。
2023年03月17日
1990年代後半、日本の病院がお金を出し合ってベトナムの優秀な学生を日本に留学させ、卒業後に看護師として活躍させるプログラムがありました。トゥイさんはそのメンバーに選ばれて来日。日本にベトナム人留学生がまだほとんどいなかった時代に、彼女はどのように勉強し生活したのでしょうか? 今回の先輩 ルー・ティ・トゥイさん 1998年高校卒業〈ナムディン省〉 1998年日本語センター入学〈ハノイ〉 2001年看護専門学校入学〈東京都〉 2004年専門学校卒業、板倉病院勤務〈千葉県〉 2009年治験コーディネート会社に勤務〈茨城県〉 2010年同社ハノイ駐在員事務所長〈ハノイ〉 2017年グランソール・ベトナム勤務〈現在も〉 2019年Chu Van An大学入学(経営管理) 2021年グリーンコネクション・ベトナム設立 2022年大学卒業 〈1980年生まれ、ナムディン省出身〉 ◆このページの内容 • ベトナムで医大に合格 • 看護師養成のための無料留学 • 日本の看護学校に留学 • 昔の留学生の苦労 • 留学生活とアルバイト • 私の家計簿 • 日本の病院で看護師 • 治験コーディネーターに転職 • 別の日系企業に転職 • グリーンコネクション事業 ベトナムで医大に合格 高校の先生や仲間たち(前列左から2番目が私) 私の故郷(ナムディン省)では医療体制が乏しく、小学2年生のときに腹痛で保健所に行くと、看護師(男性)はトランプに興じており、30分ぐらい待たされました。その後、やっと医師の診察を受け、バナナを1本もらって帰宅しました。私は自分が医師になって医師不足を補いたいと思い、高校卒業前に2つの医大を受験し、タイビン医科大に合格しました。しかし、第一志望のハノイ医科大では補欠合格候補にとどまりました。 看護師養成のための無料留学 AHPの級友や先生たちとハノイの教室で そのころ、ハノイ医大の補欠合格候補の一部にAHPという日本のNPO法人から無料留学プログラムの案内が郵送されてきました。その内容は以下のようなものでした。 ❶ AHPの選考に合格したら日本語を17カ月間勉強する ❷ 日本語能力試験で2級(今のN2)以上になったら、日本で看護専門学校を受験。 ❸ 合格したら看護学校で3年間勉強。 ❹ 卒業後、AHPが指定する病院で4年以上働く。 授業料や渡航費、生活費はAHPから支給されます。今のEPA(経済連携協定)の看護師養成制度に近いものですが、当時その制度はありませんでした。そこで、日本各地の計14病院が費用を出してAHPに運営を委託し、外国人看護師を養成する取り組みを日本で初めて行っていたのです。 AHP同窓生の食事会〈ハノイで2023年〉 このプログラムは8年続き、私はAHPの選考(高校の成績、英語の試験、面接)に合格して4期生として日本語の勉強を始めました。タイビン医大に合格していましたが、当時、ベトナムから海外留学できる人はとても少なかったので、留学のチャンスをつかんで日本で看護師になろうと決めたのです。 選考に合格後ハノイで17カ月間、日本語や数学、英語など1日約8時間の授業があり、夜も2、3時間自習をしました。数学や生物の問題自体は難しくなかったのですが、受験に備えて日本語の問題を解くので、問題の意味を理解するのが大変でした。そして、同期生56人のうち日本語能力試験1~2級(今のN1・N2)に合格して日本に行ったのは約20人でした。ただし、私を含む数人は最初の看護学校受験はうまくいかず、いったんベトナムに戻ってもう1年勉強することになりました。 日本の看護学校に留学 日本人の級友たちと看護学校で(右端が私) 私は2001年に東京都立北多摩看護専門学校に合格し、あこがれの留学が始まりました。しかし、日本語能力試験1級の私も最初は授業の半分ぐらいしかわからず、先生が話す医療用語をメモしては、後で意味を調べました。当時は電子辞書やネット辞書がなかったので、紙の医療事典で時間をかけて調べました。 私は最初、自分の日本語を日本人の級友たちに聞かれるのを恥ずかしく感じました。しかし、学校が4、5人の実習グループを作ってくれたので、その中では積極的に会話できるようになりました。当時、看護学校の留学生はとても珍しかったので、皆が親切にしてくれました。こうして日本人の友だちがたくさんでき、放課後も日本人とつるむようにしました。すると、友だちと過ごす時間が楽しくなりました。 昔の留学生の苦労 仲良くなった日本人の級友たち 当時、この学校にAHP留学生はほかに3人いましたが、先輩2人は途中で退学しました。私は授業で分からない言葉があると、周りの人たちにすぐに質問しました。そのお礼に彼女たちを自宅に招いてベトナム料理をふるまい、泊まってもらったこともあります。私はこうして周囲に溶け込むことができました。しかし、そこまで積極的になれない留学生はストレスをため、行き詰まってしまったのかも知れません。 当時は、どの学校も留学生サポートが不十分だったという事情もあります。受験に合格しても、留学生を受け入れる態勢が整っていないからという理由で入学できないAHP学生もいました。また、AHP学生を1人入学させたものの、サポートが大変なので翌年から受け入れをやめた学校もありました。 留学生活とアルバイト アルバイト仲間と飲み会 私はJR武蔵小金井駅(東京都)の近くに住んでいましたが、当時は地元にベトナム人がほとんどいませんでした。家族が恋しいのに、まだインターネットが普及しておらず、高い料金で家族に国際電話をかけられるのはごくたまにだけでした。また、私は日本食が苦手で、最初はカップラーメンばかり食べていました。そして、カップラーメンにあきると、今度はマクドナルドに通い詰めました。 来日して1年近くたつと、週末に長時間勉強しなくても授業についていけるようになったので、アルバイトを始めました。求人情報誌で見つけた衣料品店で土・日曜に8時間ずつ働き、接客やズボンのすそ上げ(ミシン縫い)を担当しました。同僚の日本人たちとも仲良くなりました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※看護学校2年目 ※100円=約18,003 VND(2023年2月9日現在) 収入:156,000円 AHPから支給される生活費 ¥66,000 AHPからの家賃補助 ¥15,000 給料 ¥75,000 ※アルバイト1件(衣料品店) 支出:98,000円 看護学校の授業料 ¥0 ※AHPが代わりに負担 家賃 ¥25,000 ※2年目は1人暮らし 電気・ガス・水道 ¥8,000 携帯電話 ¥5,000 食費 ¥25,000 ※主に自炊。昼も自分で作った弁当を持参。 交際費 ¥15,000 雑費 ¥20,000 ※衣類、教材、交通費、化粧品など 毎月の差額(貯金):58,000円 日本の病院で看護師 2004年に看護学校を卒業した私は千葉県の板倉病院で働き始め、9カ月目に、希望していたオペ室(手術室)に配属されました。そこには日本人の厳しい先輩がいましたが、彼女は、私が仕事の手順をメモすると、内容をチェックして修正してくれました。医療でいいかげんな仕事は厳禁ですが、彼女の仕事ぶりを見て、厳しい姿勢で医療に向かうことの大切さを学びました。また、ほかの先輩たちも親切で、指示が分からないときに繰り返し聞いても嫌な顔をしませんでした。 私の在職中、板倉病院にAHPの看護師は一番多いときで7人おり、同じ2階建てアパート(部屋は別々)に住んで仲良く暮らしました。また、私は日本人スタッフ(看護師、介護福祉士、事務職)数人とも仲良くなり、よく2、3人で食事や買い物、ドライブ、映画などに出かけました。 治験コーディネーターに転職 東京のベトナム大使館に婚姻届け(左) 板倉病院時代、私はできたばかりの在日ベトナム学生青年協会(VYSA)のスタッフとして交流会などのイベントを手伝っていました。すると、ベトナム人仲間が増え、友人宅での食事会で知り合った男性と2009年に結婚しました。そのとき彼は日本の大学院生で、結婚後、日本で就職しました。 また、結婚と同時に4年半働いた板倉病院を退職し、薬の治験をコーディネートする会社に転職しました。きっかけは、毎年東京で開かれるベトナムフェスティバルで知り合った日本人男性からの連絡でした。日本語を上手に話せて医療にくわしいベトナム人をこの会社が探しているとのことで、私のことを思い出して電話してきてくれたのです。私は彼の紹介でこの会社の社長に何度か会い、入社しました。 治験コーディネーターとして病院を訪問(茨城県で) 板倉病院は働きやすい職場でしたが、AHPの期間が終わったらキャリアアップのために別の道にチャレンジしようと思っていました。この会社は日本で治験のコーディネートをしていましたが、世界各国の新薬の治験データをベトナムで集めるという新規事業を計画していました。私は入社して1年半後、夫婦でベトナムに帰国し、同社のハノイ駐在員事務所長になりました。 私は、社長がベトナム保健省を訪問する際に同行するなど、関係機関に根気強く働きかけましたが、入社して8年経っても治験は実現できませんでした。ベトナムで治験のガイドラインが確立されておらず、医師に治験を依頼しても信頼性の高いデータを集められそうにないことが原因でした。 別の日系企業に転職 私はベトナムでの治験事業の実現は当面は難しいと感じ、この事業から手を引くことにしました。そんなとき、夫の知人からグランソールという医療グループを紹介されました。このグループはがんの免疫治療の開発・普及を行っていますが、免疫細胞を培養する技術をハノイ医科大学に伝えるにあたって、私に連絡・調整を担当してほしいとのことでした。私は2017年にグランソール・ベトナム社に転職し、その業務を行ってきました。また、ベトナムのがん患者が日本に免疫療法を受けに行く際のコーディネートも担当しています。 グリーンコネクション事業 私はこの仕事をしながら、2019年からフンイエン省の大学で経営管理を勉強し、2022年末に卒業しました。2021年には、ハノイに「グリーンコネクション・ベトナム」という会社を設立し、日本で技能実習をしたベトナム人の就職サポートを模索しています。 技能実習生には、日本でたくさんの経験と知識を身につけても、帰国後にそれを生かす職場が見つからず、苦労している人もいます。そこで、日本から帰国したベトナム人を日系企業などに紹介し、帰国後の仕事探しを支援したいと考えて作った会社です。趣旨に賛同して板倉病院の梶原崇弘(かじわら・たかひろ)理事長もこの会社に出資してくださいました。この事業も軌道に乗せられるように、これからさらに努力していくつもりです。
2023年03月10日
ベトナムで聞いた内容とはまったく違う仕事を毎日させられたチュンさん。外国人技能実習機構(OTIT)に相談して約束違反の仕事はなくなったものの、職場変更はできませんでした。しかし、実習生を支援する団体に相談すると状況が一変し、別の職場で技能実習を再開することができました。 今回の先輩 グエン・デュック・チュン さん 2011年高校卒業 2012年兵役 2014年建設関係の仕事〈ハノイ〉 2019年送出機関で日本語学習〈ハノイ〉 2019年訪日→講習→技能実習〈愛知県〉 2021年アルバイト〈愛知県、岐阜県〉 2022年別の会社で技能実習再開〈静岡県〉 〈1993年生まれ、ナムディン省出身〉 ◆このページの内容 • 母に楽をさせるために出稼ぎ • 事前の約束と違う仕事 • 外国人技能実習機構(OTIT)に相談 • 約束違反の仕事がなくなる • 技能実習の継続を断念 • 支援団体の支援で状況が一変! • 支援団体に頼ろう • 技能実習を再開 • 私の家計簿 •TikTokで日本語会話 •将来のこと 母に楽をさせるために出稼ぎ ベトナムでしていた仕事 私は兵役を終えてからハノイのいくつかの会社で働き、溶接やクレーン車の運転などをしました。しかし、毎月の給料が平均約8,000,000 VND(当時の約4万円)しかなかったので、外国で出稼ぎをして母に楽をさせてあげたいと思うようになりました。そして、日本より給料の高い韓国にも興味がありましたが、日本の技能実習の方が採用されやすかったので、そちらにしました。 私は親せきから紹介されたハノイの送出機関に登録し、訪日までに 計約120,000,000 VND(当時の約60万円)を自分の貯金で払いました。そして、最初の企業面接で合格し、送出機関の日本語センターで6カ月間、日本語を学びました。 事前の約束と違う仕事 清掃前(左)と清掃後(右)のグリストラップ こうして私は2019年10月に来日し、11月から愛知県の会社で技能実習を始めました。日本に来る前の約束では、私はガス管や水道管などを設置する「配管」の仕事をすることになっていました。しかし、実際の仕事の大半は清掃関係でした。私と同僚のベトナム人が実際に担当した仕事を紹介します。いずれも単発の仕事ではなく、何回も行った仕事です。 グリストラップ清掃 日本の飲食店には、油や残飯などが下水に直接流れ込まないよう、それらを分離して貯める「グリストラップ」という装置があります。この装置は定期的に掃除しなければなりません。私たちは飲食店に行って、グリストラップに貯まった汚れをホースで吸引し、残った汚れを洗剤とブラシで洗い落としました。 川の清掃 川や池の清掃 小さな川の水面に水草やゴミが貯まる場合があります。私たちは川に入ってそれらをホースで吸引する仕事をしました。しかし、ベトナム人2人と日本人2人で現場に行った場合、川に入るのはベトナム人だけでした。ほかにも汚れる仕事や重い物を運ぶ仕事はベトナム人だけがさせられることがよくありました。また、冬に浅い池に入って大量の水草を刈り取る仕事もありました。 溝掃除 道路脇の溝にたまった土砂をかき出しました。 外国人技能実習機構(OTIT)に相談 external link OTITの母国語相談 私は約1年、このような約束と違う仕事にがまんしました。しかし、外国人技能実習機構(OTIT)の母国語相談のことを知り、OTITに会社を指導してもらいたいと思って2020年11月にOTITのHPからベトナム語でメッセージを送りました。すると、メールで返信があり、相談員と何度かベトナム語でやり取りしましたが、途中で4週間近く返事が来なくなりました。 このため、私は母国語相談に見切りを付け、今度はOTIT名古屋事務所に直接電話をかけました。私は監理団体(組合)から支給された携帯電話を持っていたので、それを使いました。すると、1カ月以内にOTITから会社に連絡があり、社長と事務長と私の3人でOTIT名古屋事務所に行くことになりました。後で知ったのですが、母国語相談はOTITが外部に委託しており、相談員のレベルに個人差があるそうです。 約束違反の仕事がなくなる OTITに相談後、この写真のような約束違反の仕事はなくなった。 OTIT名古屋事務所では、社長と事務長がまず事情を聞かれ、その後、私が仕事内容やいじめの有無などについて聞かれました。数日後、OTITのスタッフが会社で私だけに会い、「これからどうしたいか」と聞いたので、私は「職場を変わりたい」と答えました。その後、OTITと組合が協力して他の会社を私に紹介し、私は面接を受けましたが、その会社は自分に合わないと思って断りました。 ただし、社長と私がOTITから呼び出しを受けて以来、私は清掃の仕事から外され、毎日、配管に関する本を読むだけの仕事に変わりました。それから約4カ月後、OTITは会社に立ち入り調査をしましたが、結果はすぐには出ませんでした。私は約束と違う仕事から外されてうれしかったのですが、本を読むだけの生活に嫌気がさしてきました。 技能実習の継続を断念 それから半年後の2021年6月、私は会社をやめました。事前に、技能実習生などを支援している在日ベトナム人から紹介された岐阜県内の組合に連絡したところ、新しい職場を紹介してくれるとのことでした。新しい組合がこのことをもとの組合やOTITに連絡してくれたので、私は会社をやめて新しい組合の宿泊施設に身を寄せたのです。 新しい会社で技能実習を始めるまでそこに無料で住めることになり、無職の状態で3カ月間滞在しました。そこには、私と同じような転籍待ちの人や帰国の飛行機待ちの人が数人おり、一緒に海に遊びに行くなどしました。また、日本語の勉強にも力を入れました。 アルバイト生活のときに京都や大阪に旅行 この組合は私が新しい会社で働くための入管手続きを申請してくれましたが、3カ月近く経っても許可がおりませんでした。そのころ、前の会社に対するOTITの調査結果が出たのですが、「会社のやり方は違法とまでは言えない」という内容でした。このため、私が新しい会社で働くための入管の許可が降りない可能性があると言われ、途方にくれました。 私は今後どうしたらよいかOTITに相談したところ、「技能実習をやめて新型コロナ関連の特例の在留資格(帰国困難の特定活動)を取れば、日本に6カ月以上滞在でき、その間はアルバイトができる」というアドバイスでした。私はもとの組合に手伝ってもらってその在留資格に変更し、期間限定でアルバイトをすることにしました。 支援団体の支援で状況が一変! 榑松さんと私〈名古屋市で〉 こうして私は2020年9月にアルバイト生活を始めました。最初は愛知県の工場でパチンコの機械を組み立てる仕事、次は岐阜県の工場でシリンダー製品にシールをはる仕事をし、最後に岐阜県の車の部品工場で働きました。 そんなとき、私は、技能実習生の支援実績が豊富な「外国人実習生SNS相談室」のことを知り、代表の榑松佐一(くれまつ・さいち)さんに会って相談しました。榑松さんは、私が技能実習生に戻れるようOTITと交渉してくれました。すると、私はOTIT名古屋事務所に1年ぶりに呼び出され、前の会社での仕事内容についてもう一度ヒアリングを受けました。その結果、OTITがもう一度新しい会社を探して私を技能実習生に戻してくれることになりました。 支援団体に頼ろう external link KOKORO|総まとめ・ベトナム人向け相談窓口 榑松さんはOTIT名古屋事務所に対し、私が川や池の掃除をしている動画などを見せ、約束の職種と違うので、私の職場変更を支援してくれるように交渉しました 私が1年前に社長と一緒にOTITに呼ばれたときにもその動画を見せたのですが、そのときは、職場変更を最後までは支援してもらえませんでした。しかし、榑松さんの交渉後、私はOTITの支援で技能実習生に戻り、職場も変わることができました。 OTITは技能実習生にとって大事な機関ですが、私の説明や交渉が不十分だったのかも知れません。後輩の皆さんも、もし行き詰まった場合は、このように支援団体に頼ってください。 技能実習を再開 日本人従業員と一緒に富士山へ 「外国人実習生SNS相談室」に相談して約3カ月後の2022年3月、私はOTITが探してくれた静岡県の建設会社に面接に行き、そこで働けることになりました。そして、新しい在留資格をもらうまで別の職場でアルバイトを続け、5月からこの会社で技能実習を再開しました。 この会社では実際に配管の仕事をさせてもらっていますし、日本人の従業員たちも親切です。古い下水管は汚いので、それを運ぶのは嫌な仕事ですが、この会社では日本人も嫌な仕事を公平に分担し、ベトナム人だけに押しつけることはありません。私は休憩時間に日本人従業員とおしゃべりすることも多く、中には、休日に車で富士山のふもとの観光施設に連れて行ってくれた人もいます。 私の家計簿(1カ月の平均) ※今の職場での家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:115,000~140,000円 給料 ¥115,000~¥140,000 *税金や社会保険、寮費、光熱費などを引いた手取り給料 *寮費(15,000円)、電気・ガス・水道(10,000円) *勤務日の昼弁当の費用も給料から天引き 支出:40,000円 食費(主に自炊) ¥30,000 生活雑貨、衣類 ¥5,000 交際費 ¥5,000 毎月の差額:75,000~100,000円 TikTokで日本語会話 私のTikTokアカウントとJFT-Basicのスコア ところで、私は週に3、4回、TikTokのライブで知り合った日本人とビデオ通話で会話をしています。前の会社をやめる少し前から日本語の勉強時間を増やし、職場やTikTokで日本人と積極的に話すことも続けているので、日本語力がかなり伸びました。国際交流基金のJFT-Basicでも235点を取り、「生活に支障がない程度の日本語能力水準」と判定されました。 将来のこと 配管工事の仕事現場 私は来日後の2019年12月~2023年1月(途中3カ月間は無職)に約280万円を貯金しました。来日前に送出機関に支払った費用を差し引いても約220万円あります。今後、日本でさらに半年間働けますので、貯めたお金で帰国後に家を買いたいと思っています。 2023年8月に技能実習が終ったらいったん帰国し、婚活をしながら将来日本に戻るかベトナムで働くか考えます。日本に戻る場合は特定技能外国人になれるよう、介護の技能試験に既に合格し、農業の技能試験も勉強中です。また、ベトナムで働く場合は日本語力を生かして工場で良いポジションを得たいと思っています。
2023年03月03日
大学に入ってから日本語の勉強を始めたチャムさん。一生懸命に勉強をして外国語大学で成績上位になり、学費無料の交換留学生に選ばれました。その留学で1年間住んだ熊本県が大好きになり、帰国後に就職活動をしてオンライン面接で大きな食品会社に合格。今は、熊本に住んで6年目になります 今回の先輩 チャン・ティ・バオ・チャムさん 2013年 フエ大学・フエ外国語大学・日本語日本文化学部入学 2017年熊本大学に交換留学〈熊本県〉 2018年帰国・フエ大学卒業 2018年再来日・大手食品会社に入社〈現在も〉 〈1995年生まれ、フエ市出身〉 ◆このページの内容 •大学で初めて日本語を勉強 •熊本で1年間の交換留学 •留学中のさまざまな交流 •日本でのアルバイトと友だち •私の家計簿 •卒業後、就職して再来日 •日本での仕事の内容 •休日のキャンプ生活 •ずっと日本で暮らしたい 大学で初めて日本語を勉強 日本語日本文化学部の文化祭で 私は子どものころから「ドラえもん」や「ちびまる子ちゃん」、「NARUTO」などの日本アニメに慣れ親しんで育ちました。また、ベトナムと日本の関係も良いことから、高校生になって進学先を選ぶときに「日本語や日本文化を学び、日本語を生かした仕事につこう」と考え、外国語大学で日本語を勉強することにしました。 私は大学で初めて日本語を学び、簡単には覚えられないので、日本語の塾にも週5回(1回2時間)通いました。そして、帰宅してからも毎日3時間以上勉強しました。その努力が実って、大学3年のときに日本語能力試験(JLPT)・N2に合格し、大学での成績も上位でした。このため、3年生終了後に熊本大学で1年間の交換留学をすることができました。交換留学生に選ばれたのは、1学年約150人のうち15~20人だけでした。 熊本で1年間の交換留学 熊本大学の留学生仲間 交換留学(2017年4月から1年間)では、毎朝、各国からの留学生約20人が日本語の講義(合計180分)を一緒に受けました。この講義は日本語力のアップにとても役立ちました。午後は、自分で選んだ講義を日本人の学生たちにまじって受講するか、講義のない日は自由に過ごしました。講義はすべて日本語でした。 日本に慣れるまでは、ボランティアの日本人学生にお世話になりました。留学生1人にチューターと呼ばれる大学生1人が世話役として付き、市役所での手続きや銀行口座の開設などを手伝い、熊本県のことや日本での生活に関することをいろいろ教えてくれました。また、留学生と日本人学生の計50人以上で熊本県や隣の宮崎県を観光する大学主催のバスツアーもあり、私も参加しました。 留学中のさまざまな交流 お母さん(右から2番目)と留学生仲間〈長崎県でお父さんが撮影〉 留学中の住まいは熊本大学の留学生寮でした。私の部屋は1人部屋でしたが、寮の1階に共同リビングがあり、そこに行けば、留学生仲間とお菓子を食べながら日本語でおしゃべりをしたり一緒にテレビを見たりすることができました。私は台湾人や中国人、インドネシア人の留学生と特に仲良くなりました。 また、大学が各留学生にホストファミリーを紹介してくれたので、私はほかのベトナム人留学生2人と一緒にあるご夫婦に会いに行きました。私はその後も(ときには1人で、ときにはほかの留学生と一緒に)このご夫婦と毎月のように会い、お二人を「お父さん、お母さん」と呼ぶようになりました。お二人には車で観光に連れて行って頂いたり、日本の正月にご自宅に招いて頂いたりしました。お父さん・お母さんとは、今もときどき会っています。 日本でのアルバイトと友だち 熊本大学や大学院のベトナム人仲間と桜の花見 熊本大学や大学院にはベトナム人学生がたくさんいて、よくみんなでご飯を食べたり、旅行に行ったりしました。こうした先輩の1人が私にアルバイトも紹介してくれました。それは弁当店のレジと厨房(ちゅうぼう)を担当する仕事で、来日した翌月から帰国するまで続けました。また、来日して4カ月目ぐらいにはコンビニのバイトも追加しました。さらに、最後の約3カ月間は、焼きそばなどめん類の弁当を作る工場でも働きました。この仕事は夜8時から朝5時までだったので、大学での受講に支障が出ないように週末だけにしました。 弁当店では同僚の日本人主婦と仲良くなり、一緒に食事をしたり遊びに行ったりするようになりました。また、弁当店やコンビニでは仕事仲間やお客さんとの会話が多く、日本語の練習になりました。そして、食品工場では、職場に入る前に手を洗って手袋をはめ、作業中に食材を落としたら拾って捨て、手袋を交換するなど、日本の厳しい衛生管理を学びました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※交換留学校時代の家計簿 ※100円=約18,003 VND(2023年2月9日現在) 収入:65,000円~80,000円 給料 ¥65,000~¥80,000 ※アルバイト2、3件 支出:67,000円~72,000円 大学の授業料 ¥0 家賃(留学生寮) ¥17,000 電気・ガス・水道・インターネット(1人分) ¥8,000 食費(主に自炊) ¥25,000 携帯電話(通話なし) ¥2,000 家賃(留学生寮) ¥15,000~¥20,000 ※交通費、交際費、化粧品、衣類 毎月の差額:10,000円~13,000円 卒業後、就職して再来日 私の食品会社の店舗〈熊本市内〉 交換留学が終わり、私は帰国してフエ大学に通いながら就職活動を始めました。留学前は日本で働くことは想像していなかったのですが、熊本で友だちもできたし住み心地も良かったので、チャンスがあれば熊本で働きたいと思うようになりました。そこで、ベトナムだけでなく熊本の友人・知人にもSNSで仕事の紹介をお願いしていました。 すると、熊本大学大学院の先輩ベトナム人が「熊本の大手食品会社がベトナム人通訳を募集している」と連絡をくださいました。先輩がその会社の人事担当者と知り合いだったそうです。同社は九州にたくさんの店を持ち、弁当やおかずを販売しています。留学中に利用したこともあったので、私は喜んで応募しました。 熊本市 先輩が人事担当者と私をLINEでつなげてくださったので、私は履歴書をメールで送り、数日後にその担当者からSkypeで約40分間のオンライン面接を受けました。その翌週、2回目のオンライン面接を受け、次の週にはメールで内定通知を頂きました。それは、相手とLINEでつながってからわずか3週間、留学を終えて帰国して2カ月目のことでした。 私は2018年5月に就職の内定通知をいただいて7月に大学を卒業し、9月に再び日本に来てこの会社に入りました。住居は会社の寮でしたが、そこに入居する前に少しだけ熊本のお父さん・お母さんの家に泊めていただきました。 日本での仕事の内容 技能実習生の友人とショッピング 私は入社してからずっと総務課に所属し、一般の総務の仕事以外にベトナム人従業員のサポートを担当しています。当社には技能実習生や特定技能外国人が約260人おり、そのうちベトナム人が約200人(実習生約150人、特定技能外国人約50人)です。この人たちの職場は食品工場で、私は日本人がこの人たちとやり取りをする際の通訳をし、生活のサポートもしています。 例えば、技能実習生が給与明細の内容に疑問があるときは私が説明をし、体の具合が悪いときは病院に同行します。実習生の寮の洗濯機やエアコンなどが故障した場合は、私が修理・買い換えを担当し、実習生が寮で大声で宴会をしたりゴミ捨てのルール違反をしたりして近所から苦情が出たときは、私が近所に謝罪し実習生に教育を行います。 休日のキャンプ生活 私が熊本で働き始めてから見つけた新しい趣味はキャンプです。熊本県や周辺の海や川は美しく、素敵なキャンプサイトがたくさんあります。週末に親しい人と一緒にキャンプを楽しむこともあれば、1人で車でキャンプサイトに行ってテントを張り、星空や海景色を満喫することもあります。日本の美しい自然と溶け合う至福のひとときです。 ずっと日本で暮らしたい 就職後、一時帰国した際に友だちとホーチミンに旅行 私は2018年に熊本で就職してからベトナムに2度帰国しました。新型コロナの影響で帰国できない時期もありましたが、もし帰国しようと思えば、熊本から電車で約1時間で福岡空港に行けて、そこからベトナムに直行便があります。また、最近は、熊本にもベトナム人が多く、ベトナム料理店も増え始めています。 私は将来、今の仕事をしながら、仕事で身につけた知識を活用して、日本で困っているベトナム人をサポートしたいと考えています。例えば、私の会社では、技能実習生が妊娠しても、休暇を取得してまた復職できますが、会社によっては実習生が妊娠すると強制的に帰国させられるケースもあります。何かに困っているベトナム人が私に相談してくだされば、日本の法律や制度、相談できる行政機関などを教えられる場合もあります。できるだけ長く日本に住み、周りの人のお役にも立てればと思っています。
2023年02月24日
技能実習生の間で人気のない建設業ですが、建設の中でも内装業では比較的トラブルが少ないとされています。内装会社で技能実習をしたチュンさんや仲間のほとんどが同じ会社で特定技能外国人になりました。職場の様子やチュンさんが日本語を話せるようになった秘訣を紹介します。 今回の先輩 ホアン・クァン・チュンさん 2014年 高校卒業〈クアンビン省〉 2015年韓国系企業の工場で勤務〈ドンナイ省〉 2018年送出機関で日本語を勉強(8カ月間) 2018年訪日→講習→内装の技能実習〈兵庫県〉 2021年 同じ会社で特定技能に移行 〈1996年生、クアンビン省出身〉 ◆このページの内容 •日本に行こうと思った理由 •ベトナムの送出機関 •電車で通勤 •7週間の出張も •同じ会社で技能実習から特定技能に •4年間で実家に450万円送金 •ボランティア日本語教室 •日本に残るかベトナムに帰るか 日本に行こうと思った理由 送出機関の教室で 私は高校を卒業後、半年あまり両親の農業(稲作)を手伝い、その後、高校の同級生が働くドンナイ省のワイヤー工場で2018年まで3年間働きました。しかし、毎日12時間(週6日間)働いても、残業代を含めて毎月約10,000,000 VND(約55,000円)しかもらえませんでした。これでは、どんなにまじめに働いてもほとんど貯金できません。 そんなとき、同年代で仲良しの親せきが日本に技能実習に行ったので、彼が休暇を取って一時帰国したときに技能実習の費用や仕事、給料について教えてもらいました。その話を聞いて、私も日本で働いて両親にお金を送りたいと思い、技能実習生になることにしました。 ベトナムの送出機関 送出機関の先生や仲間たち 私は勤務先のドンナイ省に近いホーチミンの送出機関を選びました。そして、企業面接に合格したので、会社を辞めて送出機関の寮に入り、8カ月間日本語を勉強しました。私がこの送出機関に支払った費用は約160,000,000 VND(手数料、教育費、寮費、ビザ取得費など)です。 ※編集部コメント:この費用は当時のベトナムの送出機関の平均ですが、国が決めた費用よりかなり高いです。 私が合格した会社は建築の内装を行う会社なので、送出機関での授業の半分は日本語で、残り半分は内装の勉強や実習でした。私は毎晩4時間自習して日本語をできるだけ覚えるようにしました。そして、来日後も日本語の勉強を続け、会社に相談したいことは組合(監理団体)に頼らず自分で直接相談するようにしています。その方が自分の意図が確実に伝わるからです。 電車で通勤 私たちの住む地域を走る電車とモノレール 私の会社にはベトナム人が13人(技能実習生8人、特定技能外国人4人、エンジニア1人)います。私は同期・後輩の計4人と一緒に1戸建ての寮に住み、6:00に起きて6:30に家を出ます。寮は大阪府にあり、勤務先は大阪・兵庫・京都などの建築現場です。電車が発達しているので電車やバスで現場に通い、不便な場所に行くときだけ日本人が運転する車で一緒に行きます。7:30までにマンションやホテルなどの建築現場に着き、8:00から18:00まで働きます。私は天井や壁のボードのはり方も学びましたが、最近は、フローリングをはる仕事が中心です。 現場には、さまざまな会社から作業員が集まります。私たちは1つの現場に1~3人で行くことが多いのですが、通常は他社との連絡のために日本人も一緒です。しかし、私は日本語が上達したので、15階建てぐらいまでの規模の現場なら1人で担当することも多くなりました。 7週間の出張も 出張先の鹿児島市の風景 私の会社は兵庫県に本社があり、東京と福岡に支社があります。支社の仕事で人が足りないときは私たちが出張で手伝うのですが、特定技能外国人になってから出張が増えました。例えば、2022年9月23日から11月16日まで鹿児島県(福岡支社の管内)に出張し、新築19階建て高級ホテルの内装(フローリング)を担当しました。 このときは3人で車で現地に行き、大阪から鹿児島まではフェリーに乗りました。フェリーでの移動は12時間かかりましたが、1人部屋の船室を使わせてもらったので、快適でした。鹿児島では、台所や冷蔵庫、洗濯機があるウイークリーマンション(1人1室)に住み、車で運んでもらった自分の炊飯器や鍋でいつも通り自炊しました。 同じ会社で技能実習から特定技能に フローリングはり付け工事の様子 私たちの会社は忙しいので、週に1度しか休めません。しかし、残業代や休日出勤手当はきちんと支払われますし、お盆や正月などには連休もあり、用事があるときは有給休暇も取れます。また、一緒に仕事をしている日本人の皆さんは親切ですし、新年会やバーベキュー・パーティーなど会社主催の楽しい食事会もあります。社長もやさしい人で、先輩は社長に相談してベトナムに約6週間、一時帰国することができました。 このように働きやすい職場なので、3年間の技能実習が終った後、帰国する仲間以外は皆、他社に移らずこの会社で特定技能外国人になっています。特定技能なってからは、毎月の手取り給料が約3万円増え、ボーナス(20万円以上)も年に1度もらえるようになりました。 4年間で実家に450万円送金 「自分へのごほうび」として買ったiPhone 私は技能実習の3年間で約300万円を実家に送りました。そして、特定技能外国人になってからは、基本給も上がり出張手当も多かったので、1年間で約150万円を送ることができました。弟もシンガポールの中華料理店で働いて実家にお金を送っているので、両親は約2年前、私と弟のお金で自宅を建て替えました。そのときに銀行からもお金を借りましたが、それももうすぐ完済できそうです。 私は忙しいのであまり旅行もしませんし、欲しいものもほとんどありません。日本で買った主な物と言えば、約25,000円の腕時計と日本語能力試験(JLPT)・N3に合格したときに「自分へのごほうび」として買った約70,000円のiPhoneぐらいです。 私の家計簿(1カ月の平均) ※特定技能外国人になってからの家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:190,000円 給料 ¥190,000 *税金や社会保険、寮費、光熱費などを引いた手取り給料 *寮費(25,000円)、光熱費(4,000~5,000円)、Wi-Fiと携帯電話の通話料金の一部(2,500円)は給料から天引き 支出:50,000円 食費(主に自炊) ¥30,000 生活雑貨、衣類 ¥10,000 雑費 ¥10,000 毎月の差額:140,000円 ボランティア日本語教室 external link KOKORO:ボランティア日本語教室 私たちのような現場仕事では、一緒に働く日本人と最低限のコミュニケーションをとれないと仕事に支障があります。これは技能実習をめぐるトラブルの大きな要因にもなっています。私は来日して8カ月でJLPT・N3に合格し、同期や後輩のベトナム人も勉強して必要最低限の日本語会話ができるようになりました。仕事の休憩時間などに日本人とよく雑談をするので、そのことも日本語力向上につながっています。 私は来日してからも毎晩1、2時間、日本語の勉強を続けています。また、地元の国際交流協会が主催するボランティア日本語教室(無料)にも3年間通いました。この教室では、先生が参加者の外国人に日本語を2時間教えてくれるのですが、マンツーマンのときも多く、毎週1回通うだけで大きな効果がありました。最近も、後輩の実習生に教室を紹介するために一緒に行きました。 日本に残るかベトナムに帰るか ベトナム人仲間に誘われてボランティアのゴミ拾いに参加〈大阪市で2022年〉 私は自習と日本語教室と職場での会話によって日本語をかなり話せるようになり、今はJLPT・N2を目指して勉強しています。しかし、日本語教師や通訳を目指しているわけではありません。技能実習や特定技能で内装に関する知識・技術を身につけたので、将来もこの業界で生計を立てていきたいと希望しています。 しかし、将来、日本に残るかベトナムに帰るかについては悩んでいます。私は来日前、ベトナムの工場で毎日12時間・週6日間働いても給料が10,000,000 VNDしかなく、「ベトナムでまじめに働いても一生貯金はできない」と思って日本に来ました。しかし、ここ数年でベトナムでの給料も上がり、その工場に残った友人の給料は当時の1.7倍になりました。ベトナムでも高層マンションは増えており、フローリングの需要も拡大していく可能性があります。将来の結婚や家族生活、ベトナムでの今後の所得増加を考えると、特定技能が終わったら帰国するという選択肢もあると思っています。
2023年02月20日
高校を卒業し兵役を務めた後、日本に留学して日本語力と大学卒業資格を得ようと考えたチュオンさん。日本では日本語学校と短大に留学し、来日して4年足らずで就労ビザを取得しました。今は、住み慣れた福岡県で大好きな動画撮影・編集の仕事に明け暮れています 今回の先輩 ヴ・スアン・チュオンさん 2013年 高校卒業〈ビンフック省〉 2014年兵役 2015年日本語センターで学習〈ビンフック省、約9カ月〉 2016年日本語学校入学〈福岡県〉 2018年 折尾愛真短期大学入学〈福岡県〉 2018年在日ベトナム学生青年協会福岡支部 ( VYSAF )理事 2019年在福岡ベトナム人協会理事〈現在も〉 2020年折尾愛真短期大学卒業 2020年福岡県で就職 〈1995年生、ビンフック省出身〉 ◆このページの内容 •動画の撮影・編集の仕事 •日本に行こうと思った理由 •留学センター •福岡を選んだ理由 •日本語学校→短大→就職 •日本でのアルバイト •私の家計簿 •動画の撮影・編集を始める •ベトナム人協会での活動 •日本での職歴と将来 動画の撮影・編集の仕事 external link 私が制作したショッピングモールのPRリール 私は現在、企業の外国人客誘致やSNS運営、動画制作などをサポートする福岡県の会社で動画制作を担当しています。ショッピングモールやホテル、レストランなどから受注したプロモーション動画の撮影や編集をする仕事です。 私が制作した動画はその施設のホームページやFacebook、Instagramにアップされ、消費者に見られています。中には中国語や朝鮮語のSNS投稿もあります。FacebookやInstagram用に写真を撮影したりリール動画を制作したりすることもあります。撮影には助手やモデルと一緒に行くこともありますが、動画の編集は一人で担当しています。 食品のPR写真を撮影する私(黒いシャツ) 今の勤務先は、私が日本で働き始めて3社目ですが、私は前の会社でも動画制作を担当していました。今の会社(入社して4カ月目)では、これまでに高級ホテルのレストランのプロモーション動画の制作や有名ショッピングモールをPRするリールの制作、食品のPR写真の撮影などを担当しました。 高級ホテルでは寿司コーナーを紹介する動画の制作を担当し、モデルを含む5人で2回に分けて計4時間撮影しました。このように毎週3、4日は撮影に出ており、楽しい毎日です。ただし、編集には集中できる環境が必要なので、社長の許可を得て会社近くの自宅で1人で行っています。 日本に行こうと思った理由 地元の仲間とバイクでお出かけ〈ビンフック省で、高校生のとき〉 私は高校を卒業してから1年半、兵役につきました。その後、高卒では良い仕事がないので、大学進学も考えましたが、卒業から2年経っていたので受験勉強が大変です。そんなとき、日本で留学していた友人2人から次のような助言を受け、私も日本に留学することにしました。 ・今からベトナムの大学を受験するより、留学して日本語を勉強し、日本の大学や短大に進む方がよい。留学生向けの大学受験科目は少ないし、卒業後は日本で働くか、ベトナムの日系企業などで働くことができる。 ・留学費用の一部は日本でのアルバイトでまかなうことができる。 留学センター 外国に留学するには、留学センターで留学先(学校)の紹介や外国語の授業を受けます。私は政府系の「ビンフック職業サービスセンター」を選びました。ここは主に職業紹介や職業訓練をする施設ですが、外国で働きたい人のために日本語教室も備え、留学の仲介もしてくれました。このセンターでの日本語の授業時間や諸費用は次の通りでした。 費用は、父が銀行から借りて工面し、私は日本で就職してから父に返済しました。 ・授業:月~金の8:00~12:00+13:30~16:00 ・授業料:毎月1,000,000 VND ・それ以外にセンターに支払った費用:300,000,000 VND=約166万円(手数料、ビザ取得費、日本の学校への入学金、1年間の学費65万円、日本での家賃6カ月分、飛行機代を含む) 福岡を選んだ理由 福岡市 私は最初、東京で留学したいと思っていましたが、 留学センターの先生から「住みやすいから」という理由で福岡県を勧められました。そこで、私は昔からの友人が留学していた福岡の留学センターを選び、2016年7月に入学しました。 実際に福岡に住んでみると、ここはとても住みやすい街でした。福岡も日本有数の大都会ですが、東京ほど人や建物が密集しておらず、東京より物価も安く、治安の良い都市です。東京にも遊びに行きましたが、あまりにも人が多いので、私には福岡ぐらいの都会の方が快適に暮らせます。 日本語学校→短大→就職 日本語学校のクラスメートと海へ〈福岡市〉 私は「昔からの友だちがいる」という理由で日本語学校を選びましたが、その学校にはベトナム人がとても多かったので、いつもベトナム人同士でベトナム語で話していました。 本腰を入れて日本語を勉強したい人は、ベトナム人生徒の割合が少ない学校を選んだ方がよいかも知れません。ところで、私は日本語学校での成績や出席率が良かったので、2年目は、日本の文部科学省から 毎月3万円の奨学金(外国人留学生学習奨励費)を1年間もらうことができました。 私は日本語学校に1年半通った後、福岡県北九州市の折尾愛真(おりお・あいしん)短大の経済学部に進学しました。 折尾愛真短大の入試は日本語の筆記試験と面接だけでした。また、日本語学校から推薦をもらったので、入学金を免除されました。</strong 短大の仲間とクリスマス会の歌の練習 短大では、オープンキャンパスやクリスマス会など短大のイベントを手伝うサークルに入り、そこで日本人の仲間ができました。5人ぐらいでよく一緒に行動し、彼らをアパートに招待してベトナム料理をふるまったこともあります。 私は短大で2年間勉強した後、4年生大学に編入することもできましたが、「これ以上お金を使うより、早く就職しよう」と思い、福岡県で就職しました。 日本で専門学校や短大、大学を出ると、就労ビザを取得できます。私は4年足らずの留学で日本で就職することができました。 日本でのアルバイト 短大のベトナム人仲間とJLPTの受験会場へ向かう途中の駅前で〈2019年〉 私が日本での留学中にやったアルバイトを紹介します。 ・宅急便の運転手(配達する人)のサポート:最初の1年間。日本語学校の紹介。運転手と話すので、少し日本語の練習になりました。 ・コンビニのレジ担当:来日2年目の1年間。携帯電話のアプリ(タウンワーク)で申し込んで面接を受けましたが、日本語が下手だったので3店目でやっと合格しました。 その後は違うコンビニ店に移り、短大2年生のときは、朝5時から3時間だけコンビニで働き、夜は焼き肉店で働きました。これらの店では、店長や同僚、お客さんと日本語で会話する機会が多く、日本語の練習にとても役立ちました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※短大2年目の家計簿 ※100円=約18,003 VND(2023年2月9日現在) 収入:100,000円 給料 ¥100,000 ※アルバイト(コンビニと焼き肉店) 支出:107,000円 短大の授業料 ¥50,000 家賃 ¥10,000 ※ベトナム人留学生3人で部屋をシェア(1人分の費用) 電気・ガス・水道・インターネット(1人分) ¥7,000 食費 ¥20,000 ※主に自炊。たまに短大の食堂でランチ。 携帯電話・交際費 ¥10,000 雑費 ¥10,000 毎月の差額:▲7,000円 ※福岡は家賃が安いうえ、部屋を3人でシェアしたので、さらに安くすみました。 ※夏休みなどに長く働いても足りなかったので、約4年間の留学中に父から3回お金を送ってもらいました(合計60万円)。 動画の撮影・編集を始める Facebookサークルの仲間と撮影会〈福岡市で2022年〉 私が動画制作を始めたのは留学してからです。日本語学校のときは、携帯電話で撮影して携帯電話で編集する程度でしたが、短大に入ってからビデオカメラを買い、本格的に撮影や編集をするようになりました。YouTubeに撮影・編集に関する投稿がたくさんあるので、最初はそれを見て勉強しました。 こうして学んだ技術を使って、短大のイベントで動画を撮影し、自分のFacebookページに投稿したり、在日ベトナム学生青年協会・福岡支部 ( VYSAF )に入って、テトのパーティーやスポーツ大会などのイベントの動画制作を担当したりしました。また、私と友だちが中心になって動画や写真の撮影が好きな福岡在住ベトナム人を集めてFacebookサークルを作り、情報交換や撮影会も行いました。 ベトナム人協会での活動 ミスコンテストのハイライトシーン〈福岡市で2023年〉 私の動画制作の技術はこうして徐々に上達しました。このため、VYSAFの次は在福岡ベトナム人協会から誘われて活動に参加し、イベントの動画制作を3年以上担当しています。協会は2023年には日越のビジネス交流会や九州のベトナム人を集めるスポーツ大会などを計画しています。 また、2023年1月にはテト(旧正月)を記念して有名人をたくさん招き、ミスコンテストと楽器演奏オーディション(ゴット・タレント)を開催しました。ミスコンには九州各地や東京・大阪からも参加者が集まり、私は予選の動画を撮影し、長い時間をかけて3本に編集しました。これは無償でやりました。そして、福岡市内の公園で2日間行われたミスコンと演奏の本番では、7人のチームを編成して撮影とライブ配信を行いました。 external link 私が編集したミスコンの動画 日本での職歴と将来 テトのイベントを撮影する私〈福岡市で2023年〉 私は短大2年生のとき、就職活動で5社に履歴書を提出し3社の面接を受けました。そして、福岡県内の中古車販売会社に就職し、同社の自動車整備工場で働く技能実習生7人のケアや中古車を買うベトナム人客への対応などを担当しました。また、車の整備もやりました。 この会社で約2年働いた後、以前から希望していた動画制作を担当できる会社に転職しました。ただし、その会社では、入社前に聞いた説明と実際の勤務内容が違ったので、数カ月で今の会社に移りました。 日本で就職してからは毎年60~80万円を実家に送っています。留学のために親から借りたお金はほぼ返したので、これからは親孝行のために送金を続けます。 将来は、日本で自分のマルチメディア会社を作るのが目標です。
2023年02月13日