体験談(留学・高度) | 最新ニュース
ベトナムから海外留学する人がまだ少なかった1990年代に日本に留学したニエンさん。留学仲間の夫が沖縄で就職したため彼女も沖縄に長く住むことになり、その間に日本の文学小説をたくさん翻訳し、ベトナムで出版。最近は、沖縄に住むベトナム人技能実習生たちのサポートにも力を入れています。 今回の先輩 グエン・ド・アン・二エンさん 1994年ホーチミン国家大学東洋学部入学 1997年名桜大学で交換留学〈沖縄、1年間〉 1999年ホーチミン国家大学卒業 1999年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈2年間〉 2001年名桜大学大学院修士課程入学 2003年修士課程修了 2003年大阪府立国際児童文学館外国人研究員〈6カ月〉 2004年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈4年間〉 2004年TRE出版社で日本語通訳・翻訳〈4年間〉 2011年名桜大学附属図書館でアルバイト〈5年間〉 2011年名桜大学非常勤講師〈現在も〉 2022年沖縄大学非常勤講師〈現在も〉 〈1976年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 •...
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【在ベトナム日本国大使館後援】
今回の先輩 Tran Thị Nhung (チャン・ティ・ニュン)さん 1994年生まれ、Đăk Nông省出身2012年 6月 Phan Boi Chau(ファン・ボイ・チャウ)高校卒業2012年 9月 石油関連企業に入社(データ入力業務)2016年 9月 留学あっせん会社入社、日本語の勉強開始2017年 4月 静岡県内の日本語学校入学2018年 4月 帰国2018年 5月 ホーチミンの人材会社入社 Tran Thị Nhung (チャン・ティ・ニュン)さん 1994年生まれ、Đăk Nông省出身2012年 6月 Phan Boi Chau(ファン・ボイ・チャウ)高校卒業2012年 9月 石油関連企業に入社(データ入力業務)2016年 9月 留学あっせん会社入社、日本語の勉強開始2017年 4月 静岡県内の日本語学校入学2018年 4月 帰国2018年 5月 ホーチミンの人材会社入社 はじめに 日本で1年間の語学留学をしてベトナムに帰国後、人材会社に就職し、日本語を使って生き生きと働くニュンさん。今も日本語の勉強を続けながら、これから日本に行く技術者や留学生のサポートを担っている。留学で身に付けた日本語力を土台に、帰国後も勉強を続けて仕事の幅を広げているニュンさんの姿勢は、留学を終えた方々にはもちろん、これから留学する人たちにも参考になるであろう。明るく前向きに努力するニュンさんの体験談を紹介する。 アルバイト先の日本人の先輩たちと車でお出かけ【2017年8月】 浜松市内の古着店で【2018年1月】 アルバイト先の日本人の先輩たちと車でお出かけ【2017年8月】 浜松市内の古着店で【2018年1月】 日本での生活とアルバイト 高校卒業後、地元の会社で働いていましたが、仕事にやりがいを感じていませんでした。そんなある日、留学あっせん業者に勤める近所の人から「日本に留学すれば、お金を稼ぎながら勉強できる」と勧められ、日本行きを決心しました。地元の日本語学校で半年間勉強し、2017年4月に訪日。業者から紹介された静岡県浜松市の日本語学校で2年間の予定で語学留学を始めました。学校の寮(2ベッドルーム)にベトナム人4人で暮らしました。一緒に訪日したいとこ(年上の女性)も同じ部屋でした。 【編集部からのアドバイス】 日本への留学を取り次ぐ業者の中には、「日本に行けばたくさん稼げる」とそそのかして多額の手数料を取る業者もおり、被害事例が多数報告されています。在ベトナム日本国大使館からの注意喚起(下記リンク)や当サイトの「私の体験」で先輩たちが書いている「私の家計簿」をよく読んで、日本での収入見込みを冷静に判断してください。 [iconpress id="local_1803" title="external link" style="color:#525252; font-size:22px;" ] 仲介業者に注意! [iconpress id="local_1803" title="external link" style="color:#525252; font-size:22px;" ] 業者とのトラブル事例 日本語学校のベトナム人仲間と自転車で海辺の公園へ【2017年5月】 私の授業は午前9時~12時30分で、午後は1時間かけて宿題をした後、スーパーマーケットでアルバイトをしました。自転車で約30分かかるので、しばらくして電動自転車を買いました。地方都市では、アルバイト先まで遠いことが多いので、多くの留学生が電動自転車を使います。ただし、家賃や物価は東京と比べてずっと安いです。地方都市で留学する後輩には、雨の日に自転車に乗る際に着る雨がっぱをベトナムから持って行くことをお勧めします。日本の雨がっぱの値段はベトナムの3、4倍もするからです。 訪日直後に寮の前で。地方都市での留学に自転車は必需品。【2017年5月】 アルバイトは週5日間で、時間は午後3時半~9時でした。学校から紹介された職場で、1週間28時間以内という日本の規則を守っていました。私の担当はデリカコーナーで、日本人が数十人、ベトナム人は私を含めて2人でした。日本語で仕事をするので、日本語の練習がたくさんできました。鳥の唐揚げを揚げる▽カレーやご飯を容器に入れる▽お惣菜をパッキングする▽こうした商品に値札をはって店頭に並べる――というのが、私の仕事の内容でした 。 アルバイト先のスーパーで【2017年5月】 私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,788 VND(2020年4月4日現在) 収入(合計 約100,000) アルバイト(スーパーマーケット) 100,000円※夏休みなどの長期休みは少し長く働き、給料も増えた 支出(合計 約165,000円) 家賃 20,000円※2ベッドルーム+リビング(4人暮らし) 水道・光熱費 5,000円※水道・電気・ガスの合計(4人で分担) 授業料 100,000円 携帯電話 10,000円※端末費用の分割払いを含む 食費 25,000円※自炊。アルバイト先にも弁当を持参。外食は月に1,2回。 雑費 5,000円 差額(平均 マイナス65,000円) ※不足分は母からの仕送り(1年間で130,000,000 VND)で補いました。 ※携帯電話は、学校から紹介された店で契約し、端末も買いました。しかし、今から思うと、高い端末は必要ありませんでした。これから留学する人は、ベトナムから持って行く携帯電話で生活し、卒業して就職してから高い携帯電話を買えばよいと思います。 浜松市内の衣料品店で【2017年8月】 アルバイト先では日本人の先輩たちに親切にしてもらい、日本語もたくさん話しました。先輩たちは時々、私たちを食事や買い物にも連れて行き、クリスマスには大きなケーキも買ってくれました。 アルバイト先の先輩たちのおごりで外食【2017年8月】 アルバイト先の先輩たちが買ってくれたクリスマスケーキ【2017年12月】 楽しかった留学生活 学校でも、先生たちは親切で、同級生たちとも仲が良く、楽しい留学生活でした。同級生の大半はベトナム人でした。学校の行事で日帰り旅行やクリスマス会もありました。 日本語学校の行事でバスで日帰り旅行【2017年11月】 在留期間を更新できず 充実した留学生活でしたが、在留期間を更新できず、1年で帰国することになりました。理由はよく分かりませんでした。いとこのお姉さんも私より1カ月早く帰国することになりました。 日本での最後の夜、私たちの部屋で送別会【2018年5月】 日本語学校の友だちと寮の近くで。このラーメンが大好きでした。【2018年4月】 帰国後も日本語学習を続ける 不本意な帰国でしたが、日本語がある程度話せるようになったので、語学力を生かせる仕事を探し、日系の人材会社に就職しました。日本語の勉強はあきらめず、仕事が終わってから2時間、日本語を習いに行く日があります。家でFacebookなどを使った日本語の勉強も続けています。日本人のオーナーや同僚とご飯を食べる機会もたくさんあり、仕事中にもアフター5にも日本語を使っています。 会社のオーナーや同僚とサッカー観戦をしながら食事【ホーチミンで2018年】 今の仕事の内容は、会社のFacebookの運用▽留学やエンジニアとして日本に行く人たちのための渡航手続き▽翻訳▽初級の日本語授業――などです。今後は技能実習生の送り出しも手伝う予定です。留学生や実習生には、日本で日本語能力試験(JLPT)のN3を取得して帰ってこられるよう、オンラインで学習を支援する準備を進めています。 エンジニアとして日本で働く若者たちをホーチミンの空港で見送り【2020年2月】 これから日本に行く人たちへ 私は日本に行って、日本人は親切で、仕事に関する責任感が強いということを学びました。そういう人たちに囲まれて勉強や仕事をすることができ、私も成長できたと思います。また、日本では、和食がおいしいですし、電車などの公共交通がとても便利でした。あこがれの桜の花見もできました。 子どものころから好きだった日本アニメを今もよく見ます。テトで郷里に帰ったときは、兄と一緒に日本アニメを見ました。兄は字幕を目で追いますが、私は音声で内容を理解できるようになっています。これから日本に留学に行く人たちにも、日本で精いっぱい学び、日本生活もしっかり味わってほしいと思います。 勤務先の会社の近くの公園で【2018年3月】 ダクノン省の実家の近くで【2020年1月】
2020年04月21日
今回の先輩 Duong Thuy Linh(ズオン・トゥイ・リンさん) 1988年生まれ、タインホア省出身 2006年 5月LAM SON専門高校卒業(専攻:英語) 2006年 9月ハノイ国家大学外国語大学東洋言語文化学部入学(専攻:日本語) 2010年 5月ハノイ国家大学外国語大学東洋言語文化学部卒業 2010年 9月佐賀大学文化教育学部研究生 2012年 4月佐賀大学大学院社会教育学研究科(修士課程)入学 2014年 3月佐賀大学大学院社会教育学研究科(修士課程)卒業 2014年 4月長崎国際大学(グローバル人材育成プログラム担当) 2017年 4月東京の日本外国語専門学校で日本語教師 2019年 4月帰国し、ホーチミン在住、長期出張でハノイの日本語センター校長 2020年 1月エスハイ留学事業部長 E-mail: dlinh.nihon@gmail.com はじめに 日本で8年半暮らし、大学院生や日本語学校教師などを経験し、ベトナムに戻った今は留学希望者の指導を担当しているリンさん。リンさんは日本で、歌やロータリークラブの活動、在留ベトナム人支援のコミュニティサイト制作、日本語学習支援のYou Tube チャンネル運営など、多彩な活動を展開した。学習と社会活動、そして充実した仕事。リンさんが日本で得た多くのものを、本人が体験談として紹介する。 外国語学校の修学旅行で生徒たちと【2018年5月】 日本行きを決心 私は高校で英語を専攻しましたが、大学の学部を決める際、「英語を流ちょうに話す人はとても多いので、ほかの言語を習った方が活躍の場が多いのでは」と母からアドバイスされ、日本語を専攻することにしました。日本語を選んだ理由には次のようなものがあります。 ・自宅にヤマハのオートバイやソニーのテレビなどがあり、日本に親近感があった。・中学時代にテレビ番組「おしん」がベトナムで大流行し、日本人の忍耐力に感嘆した。 大学での日本語の勉強では、新たに習った単語を使って文章を作り、それを繰り返し音読しました。その後、日本語力を生かした仕事をできるようになりたいと思い、日本留学を決意しました。 ベトナムの伝統的な服「アオザイ」を着て花見を楽しむ【福岡市で2015年4月】 長崎県のハウステンボスで華やかな百合の花に囲まれて【2016年6月】 ロータリークラブの奨学金を受給 私はハノイ国家大学と提携する佐賀大学の研究生になりました。大学院進学の準備コースのような位置付けです。留学手続きはすべて大学がやってくれました。 研究生の間は、唐揚げ店の店員やスーパーの寿司コーナーの調理室でアルバイトをして生活しましたが、大学院の2年間は、ロータリークラブの奨学金(毎月14万円)を受給できました。佐賀大学大学院でこの奨学金のベトナム人への支給枠は2名で、学内掲示板で知って応募しました。社会貢献への思いなどを書いた志望理由書や研究生のときの成績、大学院入試(日本語、英語、面接)の成績などが選考材料となりました。 嬉野(佐賀県)へ友だちとドライブ【2013年】 佐賀大学のキャンパス【2012年】 【編集部からのアドバイス】 リンさんの奨学金は「ロータリー米山記念奨学会」から支給されました。これは、日本に在留している外国人留学生に対し、日本全国のロータリークラブ会員の寄付金を財源として奨学金を支給する団体です。将来、母国と日本とのかけ橋となって国際社会で活躍する優秀な留学生を支援することを目的としています。全国で年間860人への奨学金支給枠があり、民間の国際奨学団体としては日本で最大です。 お着物の着付けの体験【2016年】 歌との出会い 日本には毎週日曜、「NHKのど自慢」という人気テレビ番組があります。全国各地で開催され、一般の人が予選に参加できます。20組だけ本選に進め、本選でうまく歌うと合格の合図の鐘がたくさん鳴ります。合格は3人に1人ぐらいです。私は訪日1年後、佐賀市文化会館で開かれた「のど自慢」に参加し、数百人の中から予選を突破して本選に進み、合格しました。そのとき、千数百人のお客さんから大きな拍手をもらって気分が高揚し、これからもたくさんの人に自分の歌を聞いてもらいたいと思うようになりました。 私は子どものころから歌うのが好きでした。佐賀大学の近くにカラオケ喫茶があり、気晴らしのために、日本人の学友と一緒に月2回ほど通うようになりました(この友人とは今も交流があり、ベトナムにも遊びに来てくれました)。ここの常連客に元歌手がいて、その人の紹介で「のど自慢」を始め地元の様々な歌の大会に出るようになったのです。大会で入賞してもらったトロフィーは15本あります。その後、就職してからはライブ活動も始め、東京でも2年間で2回、帰国後にハノイでも1回、ライブを開催しました。 在福岡ベトナム総領事館主催のテト・イベントで歌と司会。九州各地の大会で入賞し、あちこちから歌や司会の依頼がくるようになった。【2016年1月】 帰国後にハノイでライブショー【2019年5月】 私の歌の歴史 YouTubeで日本語学習支援 私は訪日後間もなく、Youtube で日本語学習動画を流し始めました。漢字の覚え方▽日本人と話す際に注意すること(発音の特徴など)▽日本語能力試験(JLPT)の解き方のこつーーといった内容です。後輩へのアドバイスのため、自分が日本人と会話する中で気づいたことを中心に伝えました。このYou Tubeチャンネルは人気が出て、再生回数が20万回に上る動画もありました。これから日本に来るベトナムの後輩の方々にも役に立つと思いますので、よかったら参考にしてください。私が歌う日本語の歌もアップされています。 Dương Linh Official channel(登録者1.85万人) 私のYou Tube番組を視聴してくれたダナン外国語大学の皆さんと交流【ダナンで2019年5月】 日本で就職、そして転職 金沢のロータリークラブから招待され、金沢の外国人留学生向けに体験談を発表後、「兼六園」という有名な庭園を見学 奨学金でお世話になったロータリークラブの方々とはよく交流し、アオザイ姿でロータリーの行事に出てベトナム文化を紹介したこともあります。この奨学金を受給する学生の会の会長にもなり、遠方のロータリーに呼ばれて留学生活について話したこともあります。ロータリーの皆さまとの交流は今も続いています。 ロータリーには留学生担当のカウンセラーがおられ、生活や勉強の相談に乗ってくださいました。私はその方を「お父さん」と呼んでいました。大学院を卒業後、「お父さん」の紹介で長崎国際大学に就職しました。そこでは、ベトナム人留学生への日本語会話授業を担当したほか、多文化共生のための合宿研修や多国籍料理イベントなどを企画・開催しました。 山梨県に旅行【2017年】 長崎で3年働いた後、東京の「日本外国語専門学校」の教師になりました。大きな外国語学校です。私はベトナム人向けの「日越通訳・翻訳科」と日本人向けの「ベトナム語科」を担当し、毎日8時半から21時まで働きました。授業以外に教材作成や採点、生徒募集などの仕事があり、都内の日本語学校約30校を回ってベトナム人生徒を募集したり、生徒募集イベントを企画したりしました。赴任時に約20人だったベトナム人学生は2年間で4倍近くに増えました。 日本文化を学ぶ授業で生徒たちが浴衣を体験【学校前で2018年7月】 授業はやりがいがあり生徒たちも慕ってくれるので、生徒たちがかわいくて仕方ありませんでした。忙しくて、毎日昼休みにカップラーメンやコンビニのおにぎりを食べている私を見て、お弁当を作って持ってきてくれる生徒もいました。ベトナム語で「ズオン先生、大好き」と書いたカードをくれる生徒たちもいました。 バレンタインデーに教室で生徒たちと【2019年2月】 卒業式後、日本人の生徒たちが残してくれたメッセージカード【2019年3月】 帰国前に生徒たちが開いてくれた送別会で【2019年3月】 私の家計簿(1カ月の平均) ※東京での暮らしがどういうものか、就職後の東京での家計簿を参考に紹介します。 ※100円=21,943 VND(2020年3月31日現在) [supsystic-tables id=21] これから日本に来る生徒達のために 日本で暮らした8年半は私にとってかけがえのない時間です。たくさんの出会いと親切に支えられた九州での6年半。そこには私の青春の思い出が詰まっています。また、上司や同僚の教師たちと家族のように付き合い、生徒たちとも深く関わった東京での教師生活もとても充実していました。 2019年4月に帰国後も日本語教育に関わる仕事を続けています。この年には、ハノイの人材会社の日本語センターで校長を任されました。また、2020年1月からはホーチミンの大手人材会社「エスハイ」の留学事業部長として、日本への留学を目指す生徒たちの指導を担当しています。後輩の皆さんにも、できるだけいい留学生活をしてほしいので、困ったときは相談メールを送ってください(時間の許す範囲で対応します)。 ハノイにて【2019年5月】
2020年04月13日
今回の先輩 Nguyễn Thị Hồng Minh (グエン・ティ・ホン・ミン)さん 1994年生まれ、バクニン省出身 2012年 6月 Trung Hoc Pho Thong Chuyen Khoa Hoc Tu Nhien – Dai Hoc Khoa Hoc Tu Nhien(ハノイ国家大学自然科学大学付属英才高校) 卒業 2012年 10月 九州大学工学部入学2016年 9月 九州大学工学部卒業2016年10月 九州大学工学部大学院修士課程入学2018年 8月 九州大学工学部大学院修士課程卒業 2018年11月 American STEMのスタッフとしてハノイ勤務 2019年11月 埼玉県富士見市に移住 はじめに 幼少時に事故で父を亡くしたミンさん。その後は、兄とミンさんを母親が一人で育ててくれた。優秀で勉強家だったミンさんはベトナムで1、2位を争う高校に進学。卒業前にJASSO(日本学生支援機構)がハノイで主催した日本留学フェアに参加し、日本政府の奨学金で日本に留学できる制度を知って応募した。そして、選考にパスして日本の国立大学・九州大学に入学し、大学院にも進学した。 留学先の九州大学伊都キャンパス【2017年3月】 大学院の研究仲間と飲み会【2017年5月】 九大で英語の授業だけで大学や大学院修士課程を卒業し、授業以外の場で日本語力も身につけたミンさん。本人が書いた体験談を以下に紹介する。 奨学金で学位と修士を取得 日本の名門国立大学「九州大学」(福岡県)が当時、Global30という日本の文部科学省の事業に採択されていました。英語の授業だけで学位を取れるコースを増やしたり外国人留学生の受け入れ態勢を充実させたりする事業です。この事業で、九大では、外国人留学生に国費奨学金(文科省の奨学金)を支給するか、国費奨学金の選考にもれた留学生には九大の奨学金を支給する制度がありました。私は国費奨学金を支給され、2012年から4年間、毎月12万円の国費をもらって生活し、授業料も免除されました。また、大学院の2年間もパナソニックから毎月12万円の奨学金をもらい、授業料も免除されました。 2枚とも=ベトナム人仲間で大分県の「くじゅう花公園」へ【2017年5月】 福岡県八女市の星野村に日帰り旅行【2017年5月】 JASSOの留学フェアを活用 私の実家は大豆農家です。8才の時に父が交通事故で亡くなり、母が兄と私を育ててくれました。高校には安い費用で行けましたが、一流大学に行くには学費がかさむので、私は奨学金で大学に行く道を探していました。すると、ベトナム国内で進学するより海外留学の方が奨学金制度が充実していることが分かり、海外に留学しようと考えるようになりました。 そんなとき、JASSOの日本留学フェアに出会いました。JASSOが主催する留学説明会で、日本の大学がたくさん参加し、外国人留学生のためのコースや支援制度を紹介しています。私はハノイのフェアで九大の留学プログラムのパンフレットをもらい、九大に書類を郵送して出願しました。JASSOはハノイとホーチミンで毎年1回ずつ日本留学フェアを開催しており、ハノイにあるJASSOベトナム事務所では普段も日本留学に関する相談に乗ってくれます。後輩の皆さんも活用されてはいかがでしょうか。 JASSOベトナム事務所 私はその後、筆記試験(数学、化学=問題文は英語)と面接(英語)をハノイで受けました。また、TOEFL IBT(Internet Based Test)で120点満点中80点以上を取ることも条件でした。こうして私は九大工学部に入学できました。 日本での生活 日本では奨学金を頂いたので、勉強に多くの時間をさくことができました。学部や大学院では材料工学(Material Engineering)を専攻しました。 アルバイトは大学食堂のレジ担当と外国人留学生への家庭教師ぐらいでした。私は数学が得意だったので、九大から依頼されて後輩留学生に微分・積分などを教えたのです。 福岡市内で散歩【2014年8月】 . . 私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,943 VND(2020年3月31日現在) [supsystic-tables id=19] . . 研究室の仲間とカラオケ【2015年9月】 日本語の勉強 大学の単位はすべて英語の授業で取りましたが、1年生の時に大学で日本語の授業が少しありました。それ以外には、NHKが提供している“Learn Japanese”というサイトで自分で日本語を勉強しました。 NHK提供の日本語学習サイトhttps://www3.nhk.or.jp/nhkworld/vi/learnjapanese/ また、大学ではチェスのサークルに参加し、日本人のサークル仲間とたくさん会話をし、日本語も上達しました。3年生からは研究室の仲間とも食事や遊び、旅行に行きました。 福岡市のアサヒビール園で研究室の先輩と飲み会【2015年7月】 日本をエンジョイ 休暇時には、大阪青年会議所が主催するPCY(世界学生平和会議)などイベントに参加したり、大学の研究室仲間で旅行をしたり、ベトナム人仲間で旅行をするなど日本生活を楽しみました。 PCYに参加し高野山へ。日本や各国の学生と交流しました。【2014年8月】 PCYのプログラムで高野山のお寺で日本人大学生らと一緒に座禅【2014年8月】 高野山にて【2014年8月】 大学の研究室の仲間と熊本旅行【2015年9月】 卒業後 九大の助教授(数学)をしていたベトナム人男性と留学中に出会い、大学院卒業後の2018年12月に結婚しました。彼は私の高校の先輩で、今は日本の名門私立大である早稲田大学で准教授をしています。 九大のベトナム人グループで鹿児島に旅行。右から2人目が今の夫。【2018年5月】 ハノイのコーヒーショップで【2019年10月】 また、卒業後の2018年8~10月には、ウガンダでAshinaga Africa Initiativeのインターンをし、同年11月からはAmerican STEM(Science + Technology + Engineering + Mathematics)のスタッフとしてハノイの小中学校で教師や生徒らに理系の基礎になる知識を教えました。日本で学んだ専門知識がこの仕事で役立ちました。 2019年11月からは夫の住む埼玉県に移り、現在、自然科学系の教師の仕事を探しています。また、友人と一緒に2019年7月に立ち上げた“Opportunity Hunting” というFacebookページで、留学を希望するベトナム人学生のお手伝いをするソーシャル・ビジネスを続けています。留学希望者が留学生の学校や奨学金を探したりCV や希望動機書を書いたりするのを安い費用で支援する事業です。後輩のベトナム人学生の方々にもぜひよい留学をしていただきたいと思っています。 ・Opportunity Hunting https://www.facebook.com/DuHocSanHocBong/
2020年04月08日
今回の先輩 ファム・キム・ホンさん 1979年生まれ、ホーチミン市出身 1997年 GIA DINH高等学校卒業1997年 Dai Hoc Bach Khoa Ho Chi Minh(ホーチミン市工科大学)建設学部水資源学科 入学2002年 Dai Hoc Bach Khoa Ho Chi Minh卒業2003年 SAWACOの子会社 入社2005年 SAWACOの子会社 退社2005年 東京の日本語学校 入学2007年 東京の日本語学校 卒業2007年 ニャットベット社 入社2008年 ニャットベット社 退社2008年 東神開発ホーチミン市駐在員事務所 入社2015年 東神会社ホーチミン市駐在員事務所 退社2015年 独立(YUMIYAコンサルテイング会社設立+フリーランスの通訳) Mail: Hongphamnv12@gmail.com ファム・キム・ホンさん 1979年生まれ、ホーチミン市出身 1997年 GIA DINH高等学校卒業1997年 Dai Hoc Bach Khoa Ho Chi Minh(ホーチミン市工科大学)建設学部水資源学科 入学2002年 Dai Hoc Bach Khoa Ho Chi Minh卒業2003年 SAWACOの子会社 入社2005年 SAWACOの子会社 退社2005年 東京の日本語学校 入学2007年 東京の日本語学校 卒業2007年 ニャットベット社 入社2008年 ニャットベット社 退社2008年 東神開発ホーチミン市駐在員事務所 入社2015年 東神会社ホーチミン市駐在員事務所 退社2015年 独立(YUMIYAコンサルテイング会社設立+フリーランスの通訳) Mail: Hongphamnv12@gmail.com はじめに 日本の大企業や行政などがベトナムで主催する大きなイベントに行くたび、同じような顔ぶれの日本語通訳者たちを見かける。トップ通訳のグループで、ホンさんはその1人だ。ホンさんはホーチミンの超一流大学を出て就職後、キャリアアップを思い立って語学留学のために日本に渡った。まだ日本留学が少なかったころだ。ホンさんが日本で送った生活や、帰国後に日本語を生かして取り組んできた仕事はどういうものだったのか――以下にホンさんの体験談を紹介する。 日越マッチングイベントで通訳仲間とホンさん(左から4人目)【2019年10月】 魅力いっぱい、通訳の仕事 私は、日本の行政や企業が行う会議やセミナー、交流会、ビジネスマッチングイベント、社内研修、事業拠点の開所式などで通訳や司会をさせて頂く機会がよくあります。例えば、横浜市とホーチミン市人民委員会との会議(=人材関連)や広島県とカントー市人民委員会との会議(=環境関連)といった行政の会議では、テレビニュースに私も一緒に映ることもあります。 日越の医療人材協力に関するフォーラムで通訳【フエで2018年12月】 通訳するときは、依頼者の立場や事業内容、会議目的をよく理解したうえで、分かりやすく正確に言葉やニュアンスを伝えるよう努力しています。その結果、繰り返し指名してくださる依頼者も増えました。 例えば、日本のある大きな市はこの2、3年間で約10回、私を指名してくださいました。ただ、最初に人材会社やイベント会社から顧客を紹介して頂いた場合、2回目以降もその会社を通して頂くようにしています。ここでも信頼が大事です。 左:日系企業の工場開所式で司会【ブンタウ省で2019年】右:通訳仲間の結婚式で司会【ホーチミン市で2019年】 友人の結婚式で通訳仲間と【ホーチミン市で2019年6月】 留学後、日系企業でコンサル業 私のもう一つの仕事はコンサルタントです。留学を終えて帰国後、オーダーメイドの着物を売る小さな会社に入りました。社長が日本人女性で、私は副社長として、生産スケジュールの管理や会計など幅広く担当しました。ただ、もう少し大規模な経営管理を勉強したかったので、約1年後に社外役員にしてもらい、不定期に出社する形に変えました。 次に務めた「東神開発」は百貨店・高島屋の子会社で、ショッピングセンター開発や不動産を手がけています。当初は日本人3人の駐在員事務所でしたが、だんだん大きくなって関連現地法人(コンサルティング会社)ができ、直属の日本人上司と一緒にそこに異動しました。ここでは、日本企業がベトナムで事業を行う際に市場調査をしたりベトナム側の提携先を探したりする業務を担当しました。 ベトナム人感覚と経験を生かしたコンサル コンサルの仕事はやりがいがあり、手取り月給も24,000,000ドンあったのですが、上司が2014年に日本に帰ったのを機に東神開発に戻り、職場の雰囲気が変わったこともあって翌年退社しました。 そして、コンサル業で独立し、最初は顧客が少なかったので、主に通訳で生計を立ててきました。紹介で通訳業務が増え、かかりきりでしたが、2019年からは、大好きなコンサルにも力を入れ始めています。日本企業の現地法人設立支援などこの年だけで数件の受注があり、日本語力と帰国後の経験を生かして取り組んでいます。 ホイアンにて【2019年7月】 日本企業がベトナムで事業を進める際、日系のコンサル会社や顧問と一緒にやることが多いのですが、コンサル会社や顧問の知識、感覚、事業理解などが依頼者の求めに達していないケースがよくあります。私は通訳としてこういうケースを目にしてきましたが、私の顧客に対しては、ベトナム企業の文化やマインドと日本企業のマインドとの橋渡しをし、コンサルと通訳の両方の経験を生かして事業推進のために最大限お役に立ちたいと思っています。 友人と夕食会【ホーチミン市で2020年1月】 就職後、日本留学に踏み切る さて、私が日本に留学したいきさつを少し話します。私は大学を出てSAWACO(ホーチミン市水道局)の支部に就職しましたが、自分が成長する機会があまりないと感じていました。そんな時、東京の日本語学校の生徒募集の仕事をしていた知人に誘われました。 大学時代に1年余り、地元の日本語学校で週3回日本語を習い、就職後もドンズー日本語学校の社会人コースに1年あまり通ったので、この機会に日本語を本格的に身につけて将来の仕事につなげようと考え、訪日しました。そして、東京では、マンションの1室(ワンベッドルーム、台所は別室)にベトナム人3人、スリランカ人1人で一緒に住みました。 日本語学校のクラスメートたちと【2006年】 わたしの家計簿 ※2005年~2007年※100円=21,943 VND(2020年3月31日現在) 収入(合計約120,000~130,000円) アルバイト(居酒屋) 計90,000~100,000円※税金を引いた後の手取り額※夏休みなど長期休暇時は少し増える 仕送りなど 30,000円※ベトナムから持って行ったお金と母からの仕送り 支出(合計 約120,000~130,000円) 寮費・光熱費 35,000円※1DKに4人暮らし、1室に2段ベッド2台※電気・ガス・水道の料金込み 携帯電話 0円<※当時はあまり普及していなかった 学費 65,000円 食費 20,000円※自炊 雑費 5,000円~10,000円※留学生仲間とたまに日帰り旅行 差額(貯金) なし 日本語学校の行事で旅行【2005年夏】 日本語上達のために 日本での最初のアルバイトは学校からの紹介で、スーパーでの仕事でした。倉庫から品出しをしたり賞味期限が近づいた食品に割引のシールを貼ったりする仕事ですが、日本人との会話が少なかったので、半年間でやめました。しかし、当時は留学生のアルバイト先が少なく、求人雑誌を見て電話しても日本語が下手なので面接にこぎつけるが困難でした。 そこで、ハローワークに行って、担当者から「仕事を探しているベトナム人留学生がいますが、どうですか」と電話してもらい、面接を受けて合格しました。居酒屋で、お客さんの注文を聞いたり料理を運んだりしました。店長や店員との会話も多く、日本語の練習になったので、帰国するまでここで働きました。 アルバイト先(スーパー)の忘年会で店長と握手【東京で2005年12月】 日本語学校では、アルバイトで疲れて授業中に眠る人も多くみかけましたが、なんとしても日本語を身につける覚悟で留学したので、私は眠らないようにがんばりました。また、学校が休みの土日は、近くの公共図書館に行って勉強しました。 また、東京で仕事を定年退職した日本人のボランティア数名が毎週水曜に1時間半ぐらい外国人と会話する日本語サークルを開いていました。私はこの日はバイトを入れず、毎週ここに行きました。日本人教師1人、外国人4、5人の少人数教室でした。これ以外に、ボランティアによる無料の料理教室にも参加しました。これらの教室やアルバイト先での会話が日本語力の向上に大きく役立ちました。後輩の留学生の方々も、できるだけ日本人と話す機会を見つけてください。 ボランティアによる無料料理教室で【東京で2006年11月】 元日本留学生クラブ(Japanese Universities Alumni Club in HCM) 帰国後はホーチミン市元日本留学生クラブ(Japanese Universities Alumni Club in HCM)に友人の紹介で入りました。ここには1,000人以上のメンバーと数十人の中心メンバーがおり、JASSOの日本留学フェアの運営や通訳を手伝ったり、独自のイベントを行ったりしています。仲間同士の交流も盛んです。 いずれもJUACHの新年会で【ホーチミン市で2019年2月】 JASSOの日本留学フェアでJUACHのメンバーと【ホーチミンのRex Hotelで2019年10月】 JASSO日本留学フェアの様子【2019年10月】 将来につながる留学を 今、日本でベトナム人による犯罪が増えています。日本語の準備をせず軽い気持ちで留学しても、よいアルバイトには就けません。そして、お金に困った留学生を悪いグループが窃盗などの犯罪に誘います。こうしたことにならないよう、自分が将来どうなりたいのかよく考えてから留学しましょう。 目の前のお金を稼ぐよりも、自分の将来や家族のことをよく考え、将来の仕事につながる成果を得るように努力しましょう。具体的には、まずは、日本語学校で平均以上の成績をとれるようにがんばってください。 いずれも通訳仲間とホーチミン市内で【2020年1月】
2020年04月04日
今回の先輩 Phan Nguyệt Minh(ファン・グエット・ミン)さん 1988年生まれ、ダナン市出身2006年 5月 PHAN CHAU TRINH 高校卒業2006年 7月 ドンズー日本語学校入学2007年 9月 ドンズー日本語学校卒業2007年10月 福山YMCAビジネス専門学校日本語科入学2009年 3月 福山YMCAビジネス専門学校日本語科卒業2009年 4月 国立岡山大学 経済学部入学2013年 4月 国立岡山大学 科学文化研究科(大学院)入学2015年 3月 国立岡山大学 科学文化研究科卒業2015年 4月 カイタック(株)入社(正社員/生産管理)2017年 3月 カイタック(株)退社、6月帰国2017年 7月 FPT入社2018年 5月 FPT退社2018年 6月 旅行会社経営、通訳(フリーランサー) Phan Nguyệt Minh(ファン・グエット・ミン)さん 1988年生まれ、ダナン市出身2006年 5月 PHAN CHAU TRINH 高校卒業2006年 7月 ドンズー日本語学校入学2007年 9月 ドンズー日本語学校卒業2007年10月 福山YMCAビジネス専門学校日本語科入学2009年 3月 福山YMCAビジネス専門学校日本語科卒業2009年 4月 国立岡山大学 経済学部入学2013年 4月 国立岡山大学 科学文化研究科(大学院)入学2015年 3月 国立岡山大学 科学文化研究科卒業2015年 4月 カイタック(株)入社(正社員/生産管理)2017年 3月 カイタック(株)退社、6月帰国2017年 7月 FPT入社2018年 5月 FPT退社2018年 6月 旅行会社経営、通訳(フリーランサー) 仕送りせず、学生生活に集中 私はホーチミンのドンズー日本語学校で1年間勉強し、2007年から7年半、日本で留学しました(専門学校→大学→大学院)。その間、アルバイトは法律を守って週28時間以内にほぼ納めました。岡山は東京などと比べて生活費が安いですし、勉強に力を入れたので大学の授業料も半額が無料にしてもらえ、少ない給料でも生活できました。留学生のときは親に仕送りをできませんでしたが、その分、卒業してから親孝行に努めています。 また、留学中、工夫して安い費用で日本各地を旅行しました。卒業後、正社員として日本で働いた2年間は、6回も海外旅行に行きました。その後、故郷のダナンに帰り、こうした経験がもとになって、旅行を扱う仕事で生計を立てています。それでは、私の日本体験を紹介します。 ダナンのカフェで【2019年12月】 一つの居酒屋で6年間アルバイト 訪日して初めてのアルバイト先はラーメン店で、ここを見つけるまでに2カ月間かかりました。駅などに置かれている無料のアルバイト紹介雑誌を見て先方に電話しても、面接してもらえるのは10件のうち1件くらいでした。その面接にも5、6回落ち、初めて合格したのがこの店でした。当時は、外国人雇用はまだ珍しかったのです。その後、マクドナルドや牛丼店も兼務しましたが、アルバイト時間は、合計で週28時間以内に納めました。 岡山大学(岡山県岡山市)に入学後は一つの居酒屋で6年間働き、最後は私が一番の古株でした。バイト仲間(主に日本人)とよく飲みに行ったのは楽しい思い出で、彼らとは今もLINEなどで連絡を取り合っています。就職前にバイトをやめるときは、店長も含め約20人が送別会をしてくれました。 6年間勤めた居酒屋をやめる際、送別会でもらったメッセージボード【2015年2月】 地方で安く生活 専門学校のあった広島県福山市では、ドンズーから一緒に行った仲間と2人で2DK(寝室2室)の部屋に住みました。その後、ドンズーの後輩が3人加わり、5人で住みました。古いマンションの4階(エレベーターなし)で、家賃は月3万円(約6,350,000ドン)でした。東京では考えられない安さです。 ただ、授業料が年間70万円で、これを支払うのが大変でした。日本語を聞いても半分くらいしか分からず、大学受験の勉強もあり、アルバイトにも不慣れで、この時期が一番大変でした。 専門学校の教室でドンズー仲間や日本人の先生と【2007年秋】 ただ、専門学校での成績がよかったので、大学1年の時に毎月5万円の奨学金をもらえました。また、大学と大学院の計6年間のうち3年間は授業料を半額免除され、3年間は全額免除(無料)されました。これは、私の成績が制度の適用基準を満たしたからです。 アルバイトに明け暮れて「収入を増やす」より、学業をしっかりやって奨学金や授業料減免を得て「支出を減らす」方が、自分の将来につながるのではないでしょうか。 マンションの部屋が狭かったので、いつも大学の図書館で勉強【2011年11月】 [iconpress id="local_120" title="book" style="color:#525252; font-size:25px;" ] 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学生時代(2009~2013年) ※100円=21,174 VND(2020年2月8日現在) 収入(合計約80,000~90,000円) アルバイト(居酒屋、牛丼店) 計80,000~90,000円 単発のイベント通訳など 5,000~8,000円※税金、社会保険などを引いた後の手取り額※単発バイトは毎月あるとは限らない※夏休みなど長期休暇時は40,000円~45,000円増える 支出(合計約100,000円) 家賃 28,000円※1人暮らし、ワンルーム、wi-fi込み※大学まで自転車で10分 光熱費 7,000円※電気・ガス・水道の合計 携帯電話 7,000円 学費 22,500円※成績優秀で半額免除(全額免除の年もあった) 食費 20,000円※朝はコンビニ、昼は大学の食堂(300~400円)※夜はバイト先の飲食店で格安で食べる日もあった 雑費・交通費 5,000円~10,000円※月に数回、友人と一緒に出かける※あまり買い物をしない 差額(貯金)平均10,000円 ※親に仕送りはせず、時々帰国する際に薬やサプリをお土産に買った。 私は岡山に住めてよかったです。生活費も安いですし、お店もそれなりにたくさんあり、ショッピングモールが充実していました。東京は人気がありますが、人が密集しすぎており、生活費も高いので、たまに遊びに行くにはいいですが、私が生活するには適していないように感じました。留学生にとっては、生活費を抑える意味で、地方での生活もお勧めです。 日本語の勉強、受験勉強、大学合格 私は小学校から高校までフランス語を学びました。しかし、フランス留学ではアルバイトだけでは生活できないと聞いたので、日本を選びました。ドンズー日本語学校のことは高校の同級生に教えてもらいました。 ドンズーでの1年間は、ダナン出身生徒20人以上と一緒に一軒家(3階建て)に住みました。日本語は初めてでしたが、白紙の状態から集中的に勉強したので、短期間で力がつきました。ただ、訪日したてのころは、相手の話すことの半分ぐらいしか分かりませんでした。 岡山大学を受験する際は、JASSOの留学試験(総合科目、日本語、数学I)の成績を提出し、大学で日本語(小論文)の試験と面接を受けました。 日本語については、私はベトナムでも日本でも学校の予習・復習をしっかりやりました。ある程度力がついたら、日本のテレビ番組を見るのもお勧めです。自然な日本語を使っていますし、冗談の言い方も分かり、岡山にいても東京で何がはやっているのか分かります。また、テレビでの情報を話題に、学校やバイト先で日本人と会話することもできます。 岡山大学の留学生仲間と学園祭でベトナム料理を販売【2014年11月】 岡山大学のベトナム人留学生で桜の花見(岡山市内の植物園で)【2015年4月】 長期休暇時は節約旅行 ドンズー仲間と2人で「青春18切符」で数日間の旅行。東京では、幼なじみと合流し、家に泊めてもらった。【2009年9月】 長期休暇時は、ベトナム人の留学生仲間と一緒に日本各地を旅行しました。北海道や九州にも行きましたが、繰り返し行ったのは、岡山市の隣の倉敷や広島、神戸など近場でした。 日本では長期休暇時に定額でJR(鉄道)に1日乗り放題の「青春18切符」という切符が販売されます。特急には乗れませんが、この切符でよく神戸などに日帰り旅行をしました。また、遠くに旅行する際は、そこに住んでいるドンズーの同窓生に連絡し、案内してもらったり家に泊めてもらったりしました。 ドンズー仲間と一緒に三重県の「なばなの里」へ【2012年12月】 専門学校時代のルームメートが広島・岡山・滋賀から集まり、「なばなの里」を観光後、三重大学生の仲間の家に泊まって同窓会【2012年12月】 ダナンから家族を呼んで長期旅行 大学3年生の時、母と弟をダナンから招待し、日本各地を約2週間、旅行しました。行き先は広島、神戸、大阪、京都、富士五湖(富士山の周辺の湖)、東京でした。そのときに持っていた貯金約40万円を全部使いました。(父は用事があって来られませんでした。) 母(左)や弟を連れて行った安芸の宮島(広島)【2012年8月】 岡山は美しい 岡山は人気の観光地ではありませんが、実は美しい名所がたくさんあります。私は岡山の四季を満喫しました。 大学のベトナム人仲間を岡山の有名な日本庭園「後楽園」に案内。浴衣はフリーマーケットで安く購入。【2015年8月】 大学の近くの公園で日本の秋を味わう【2013年11月】 岡山はブドウの名産地。大学のベトナム人仲間と一緒にブドウ狩り。【2015年9月】 日本では季節ごとに花が替わる。岡山市内の植物園でアジサイを鑑賞。【2013年6月】 日本の会社に就職 大学院を卒業後、大学の紹介で地元の大手アパレル会社に就職しました。同社はベトナムの工場に生産を委託していたので、生産管理などでベトナム人が必要でした。私が初めてのベトナム人社員で、月給は手取り17~18万円でした。仕事は楽しく、上司もとても親切で、ベトナムへの出張もありました。 この会社で働いた2年間は、長期休暇(春のゴールデンウイーク、夏の盆休み、年末年始)の際に毎回、海外旅行に行きました。行き先は米国(2回)、ヨーロッパ、韓国、台湾などでした。 帰国前直前には、2週間の一人旅。プラハ(左)とストラスブールで。【いずれも2017年5月】 帰国前直前には、2週間の一人旅。プラハ(上)とストラスブールで。【いずれも2017年5月】 帰国し、独立 仕事にはやりがいがありましたが、ある自動車販売会社から「ダナンでショールームを開設するので手伝ってほしい」と誘われ、悩んだ末に帰国を決意しました。その後、ショールーム計画は頓挫しましたが、アパレル会社に退職を申し出た後だったので、そのまま帰国し、最大手の通信会社で1年間働きました。 あと3年住めば日本での永住権も取れたのですが、私はいつか起業したいと思っていたので、日本よりも起業へのハードルが低いベトナムにいつかは帰ろうと思っていました。その後、小さな旅行会社を立ち上げ、サイドビジネスで通訳・翻訳(フリーランス)もしています。 私と同じように楽しい留学をできる人が増えるよう、留学経験やアドバイスをブログにしました。よかったら参考にしてください。 http://mmblog.com.vn/blog/du-hoc-nhat/ ホイアンにて【2019年11月】
2020年02月28日
今回の先輩 Duong Phuc Tin(ズオン・フック・ティン)さん 2013年6月Yến Dung So3高校 卒業 2013年9月ベトナムの外国語学校入学 2014年4月東京都内の日本語学校入学 2016年3月日本語学校卒業 2016年4月開知国際大学入学 2019年8月開知国際大学中退 〈1995年生まれ、バックジャン(Bac Giang)市出身〉 はじめに 私はベトナムの日本語学校で半年間勉強して訪日し、東京の日本語学校に2年間在籍後、千葉県柏市の開智国際大学に入りました。楽しい大学生活を送っていましたが、4年生の夏、在留期間を更新できず、卒業目前で大学を中退して2019年8月15日にベトナムに帰国しました。在留期間を更新できなかったのは、アルバイトの勤務時間が法律の制限を大きく超えたからです。今では、「アルバイトを少し減らし、もっと勉強をすればよかった」と悔やんでいます。今後、ベトナム人の仲間や後輩が同じ目にあわないよう、入管とのやり取りなど、私の具体的な体験をお伝えします。 【編集部からのアドバイス】 日本で留学したり働いたりするためには「在留資格」が必要です。「在留資格」と「ビザ」は本当は違うものですが、在留資格のことを「ビザ」と呼ぶケースも多いので、在留資格とビザを似たようなものと理解してもかまいません。「留学」の在留資格の場合、原則として就労はできませんが、「資格外活動許可」を取得すれば、アルバイトはできます。ただし、勤務時間は週28時間以内(学校の長期休暇時は週40時間以内)と制限があり、違反すると在留資格を失う(=在留期間を更新できない)原因になります。 私の日本での在留期間更新 私が訪日してからの在留期間更新の流れは次の通りでした。 ① 2014年【東京の日本語学校入学】 「留学」の在留資格で訪日(在留期間は1年間) ☆在留資格取得許可申請は日本語学校が代行 ② 2015年【日本語学校2年目】 在留期間更新(1年間) ☆更新許可申請は日本語学校が代行 ③ 2016年【大学入学】 在留期間更新(2年間) ☆更新許可申請は自分で行った ☆日本語学校の成績がある程度良かったので、2年間の期間更新ができた。同じ大学に、入学時に4年間の期間更新を許可されたベトナム人も複数いた。 ④ 2018年【大学3年】 在留期間更新(1年間) ☆更新許可申請は自分で行った ☆1年間しか期間更新できなかったのは、大学での取得単位数が少なかったことが原因か。 ⑤ 2019年【大学4年】 在留期間更新(不許可)→大学中退、帰国 長時間アルバイトと暮らし 私の訪日後の最初のアルバイトは学校からの紹介で、倉庫での荷物仕分けでした。訪日して2年目以降は、大手チェーンの焼き鳥店と牛丼店で働きました。焼き鳥店では夜勤(22時~朝5時半)が多く、夜勤の時給は1,370円(約290,000ドン)もありました。私は週に2、3回(夏休みなどには週5回)、夜勤を担当しました。牛丼店では、夜勤(22時~9時)で時給1,250円、それ以外の時間で時給1,005円をもらいました。 留学生のアルバイトは日本の法律で週28時間以内と決まっていますが、私は週40時間ぐらい働いていました。また、夏休みなど長期休暇時は法律では週40時間以内なのに、私は50~60時間働きました。その結果、年間約240万円の給料をもらっていました。一方、大学での成績は低迷しました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,195 VND(2019年11月30日現在) 収入(合計180,000円~250,000円) アルバイト2件(牛丼店、焼き鳥店) 合計180,000円~250,000円 ※税引き後の手取り給料 ※約250,000円は学校の長期休暇時 支出(合計 150,000円~162,000円) 家賃 35,000円 ※1人暮らし ※東京に比べると相当安い ※ワンルーム、シャワー&バス 光熱費 7,000円 ※電気・水道・ガスの合計 携帯電話+自宅のインターネット 10,000円 食費 28,000円~30,000円 ※バイト先の飲食店で格安で食べる日もある ※外食費含む 授業料 60,000円 ※奨学金や授業料減免なし(対象は成績優秀者のみ) 雑費 10,000~20,000円 ※衣類、交通費など 差額(30,000~90,000円) 差額 30,000~90,000円 ※貯まったお金は家族への仕送りや旅行、一時帰国、保険などに使った ※実家への仕送りは5年間で200万円以上 入国管理局とのやり取り 私は2016年の大学進学時、東京出入国在留管理局千葉出張所に在留期間更新許可を申請しました。この時は在留期間を2年間更新でき、2018年(大学3年)は1年間更新できました。 更新許可申請では、最初に許可申請書や在学証明書、成績証明書などを提出しました。すると、後日、入管から自宅にはがきが届き、課税証明書や給与明細、通帳(3カ月分のコピー)を追加で提出するように求められました。これらは、多くの留学生が求められるのと同じ資料です。 私は、二つのアルバイト先の書類を出すと勤務時間超過がばれると思い、焼き鳥店の課税証明書と給与明細だけを提出しました。通帳も、焼き鳥店からの給料が振り込まれる口座と牛丼店からの振込口座をわけていたので、焼き鳥店からの振込口座の通帳だけを提出し、在留期間を更新することができました。 しかし、2019年の更新許可申請時は違いました。入管から届いたはがきに「賃金台帳」も提出するように書かれていました。賃金台帳は、勤務先が従業員の労働時間や給与などを記載する書類で、給与明細よりも詳しい内容になっています。しかも、はがきには、焼き鳥店だけではなく牛丼店の賃金台帳も提出するように書かれていました。入管が私の勤務先のことをどこかで調査し、両方の賃金台帳を提出するように指定してきたのです。 仕方なく両店で賃金台帳を発行してもらって入管に提出すると、再度はがきが届き、入管に出頭するよう求められました。指定日時に入管に行くと、個室に連れて行かれ、私のアルバイト勤務に関する調査資料を見せられました。担当官から「あなたは規定の時間を超えて働いたので、在留期間を更新出来ない」と言われ、私は日本に在留し続けることができなくなりました。 在留資格更新の分かれ目 私は留学のために約150万円の借金をしました。ベトナムの日本語学校に支払った学費や寮費以外に紹介手数料なども含まれています。日本での学費と生活費をまかない、借金も返済するためには、週28時間のアルバイトだけでは無理でした。しかし、今にして思うと、アルバイトをもう少し減らすことはできました。 【編集部からのアドバイス】 ・ティンさんがアルバイトをしすぎたのは、留学前につくった多額の借金が背景にあります。少ない借金で留学できるケースはたくさんあります。情報を集め、なるべく借金をせずに訪日しましょう。 ・ティンさん以外にもアルバイト時間の超過で在留期間を更新できず、途中で帰国する人はたくさんいます。ティンさんは「在留期間更新は学校の成績にも左右される。大学入学時は在留期間を2年間更新できたが、3年の時は1年間しか更新できなかった。大学での取得単位数が少なかったことが影響したと思う。今回も成績は悪かったので、厳しく調査されたのかも知れない」と話しています。 写真で見る私の日本留学 私は、日本で大学を卒業して日本で就職しようと思って訪日しました。その後、ベトナムの日系企業で働きたいと希望が変わりましたが、残念ながら卒業目前で帰国するはめになりました。たくさん仕送りをして家族に喜んでもらおうと思って働きましたが、こういうことになって残念です。今にして思えば、アルバイトを少し減らして、もう少し勉強すればよかったと思います。 帰国後すぐに仕事が見つかり、今はハノイの技能実習生送出機関で働いていますが、これから訪日するベトナムの後輩には同じ過ちを繰り返してほしくないと思い、私の失敗談を紹介しました。 最後に、私の留学生活を写真で振り返り、日本のよさ、留学の素晴らしさをベトナム人の後輩の皆さんにお伝えできればと思います。 ■ 2015年冬・東京 日本語学校の仲間たちと宴会。ベトナムや中国、ネパール、台湾などアジア各地から留学生が集まり、会話の共通言語は日本語でした。学期末試験の後などには、こうして大勢で飲みに行きました。 ■ 2015年12月・箱根 日本語学校の旅行で、1泊2日で箱根へ。この日本語学校では、半年に一度、みんなで旅行に行きました。宿で夜遅くまで仲間とおしゃべりできて、楽しかったです。 この日は雪が積もっていました。東京でも雪は何度か体験しました。雪が降る眺めはきれいでした。 ■ 2016年3月・日本語学校卒業 日本語学校の卒業式の会場前で記念撮影。いろんな国の人と一緒に学びました。【東京都内で】 ■ 2017年・大学2年(アルバイト仲間) 焼き鳥店のバイト仲間と(手前が私、中央のバンダナの女性はベトナム人、他の5人は日本人)。バイト仲間には日本人の大学生や専門学校生が多かったです。 焼き鳥店のバイト仲間(全員ベトナム人)と東京で花火大会を見物。日が暮れる前からこうして席取りをし、花火が始まるのを待ちました。 ■ 2019年・大学4年 ベトナムで通った日本語学校の同窓生と時々、こうして同窓会。日本での進路は、就職、専門学校、日本語学校、大学など様々。【東京・池袋の居酒屋で2019年春】 授業がないときは、キャンパスで同じ学部のベトナム人仲間(4年生)と歓談。この時は、在留期間更新許可申請の結果がまだ出ていませんでした。【開知国際大学で2019年6月】 ■ 2019年・大学4年(帰国直前) 帰国することになり、牛丼屋のバイト仲間が開いてくれた送別会。奥の2人は日本人で、「寂しくなる」と言ってくれました。【2019年8月1日】 同じ大学のベトナム人の友人宅で2人でお別れ会【2019年8月6日】 焼き鳥店や牛丼屋でアルバイトをする日は、このような「まかない(従業員に格安で提供される食事)」をよく食べました。 今回の先輩 Duong Phuc Tin(ズオン・フック・ティン)さん 2013年6月Yến Dung So3高校 卒業 2013年9月ベトナムの外国語学校入学 2014年4月東京都内の日本語学校入学 2016年3月日本語学校卒業 2016年4月開知国際大学入学 2019年8月開知国際大学中退 〈1995年生まれ、バックジャン(Bac Giang)市出身〉 はじめに 私はベトナムの日本語学校で半年間勉強して訪日し、東京の日本語学校に2年間在籍後、千葉県柏市の開智国際大学に入りました。楽しい大学生活を送っていましたが、4年生の夏、在留期間を更新できず、卒業目前で大学を中退して2019年8月15日にベトナムに帰国しました。在留期間を更新できなかったのは、アルバイトの勤務時間が法律の制限を大きく超えたからです。今では、「アルバイトを少し減らし、もっと勉強をすればよかった」と悔やんでいます。今後、ベトナム人の仲間や後輩が同じ目にあわないよう、入管とのやり取りなど、私の具体的な体験をお伝えします。 【編集部からのアドバイス】 日本で留学したり働いたりするためには「在留資格」が必要です。「在留資格」と「ビザ」は本当は違うものですが、在留資格のことを「ビザ」と呼ぶケースも多いので、在留資格とビザを似たようなものと理解してもかまいません。「留学」の在留資格の場合、原則として就労はできませんが、「資格外活動許可」を取得すれば、アルバイトはできます。ただし、勤務時間は週28時間以内(学校の長期休暇時は週40時間以内)と制限があり、違反すると在留資格を失う(=在留期間を更新できない)原因になります。 私の日本での在留期間更新 私が訪日してからの在留期間更新の流れは次の通りでした。 ① 2014年【東京の日本語学校入学】 「留学」の在留資格で訪日(在留期間は1年間) ☆在留資格取得許可申請は日本語学校が代行 ② 2015年【日本語学校2年目】 在留期間更新(1年間) ☆更新許可申請は日本語学校が代行 ③ 2016年【大学入学】 在留期間更新(2年間) ☆更新許可申請は自分で行った ☆日本語学校の成績がある程度良かったので、2年間の期間更新ができた。同じ大学に、入学時に4年間の期間更新を許可されたベトナム人も複数いた。 ④ 2018年【大学3年】 在留期間更新(1年間) ☆更新許可申請は自分で行った ☆1年間しか期間更新できなかったのは、大学での取得単位数が少なかったことが原因か。 ⑤ 2019年【大学4年】 在留期間更新(不許可)→大学中退、帰国 長時間アルバイトと暮らし 私の訪日後の最初のアルバイトは学校からの紹介で、倉庫での荷物仕分けでした。訪日して2年目以降は、大手チェーンの焼き鳥店と牛丼店で働きました。焼き鳥店では夜勤(22時~朝5時半)が多く、夜勤の時給は1,370円(約290,000ドン)もありました。私は週に2、3回(夏休みなどには週5回)、夜勤を担当しました。牛丼店では、夜勤(22時~9時)で時給1,250円、それ以外の時間で時給1,005円をもらいました。 留学生のアルバイトは日本の法律で週28時間以内と決まっていますが、私は週40時間ぐらい働いていました。また、夏休みなど長期休暇時は法律では週40時間以内なのに、私は50~60時間働きました。その結果、年間約240万円の給料をもらっていました。一方、大学での成績は低迷しました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,195 VND(2019年11月30日現在) 収入(合計180,000円~250,000円) アルバイト2件(牛丼店、焼き鳥店) 合計180,000円~250,000円 ※税引き後の手取り給料 ※約250,000円は学校の長期休暇時 支出(合計 150,000円~162,000円) 家賃 35,000円 ※1人暮らし ※東京に比べると相当安い ※ワンルーム、シャワー&バス 光熱費 7,000円 ※電気・水道・ガスの合計 携帯電話+自宅のインターネット 10,000円 食費 28,000円~30,000円 ※バイト先の飲食店で格安で食べる日もある ※外食費含む 授業料 60,000円 ※奨学金や授業料減免なし(対象は成績優秀者のみ) 雑費 10,000~20,000円 ※衣類、交通費など 差額(30,000~90,000円) 差額 30,000~90,000円 ※貯まったお金は家族への仕送りや旅行、一時帰国、保険などに使った ※実家への仕送りは5年間で200万円以上 入国管理局とのやり取り 私は2016年の大学進学時、東京出入国在留管理局千葉出張所に在留期間更新許可を申請しました。この時は在留期間を2年間更新でき、2018年(大学3年)は1年間更新できました。 更新許可申請では、最初に許可申請書や在学証明書、成績証明書などを提出しました。すると、後日、入管から自宅にはがきが届き、課税証明書や給与明細、通帳(3カ月分のコピー)を追加で提出するように求められました。これらは、多くの留学生が求められるのと同じ資料です。 私は、二つのアルバイト先の書類を出すと勤務時間超過がばれると思い、焼き鳥店の課税証明書と給与明細だけを提出しました。通帳も、焼き鳥店からの給料が振り込まれる口座と牛丼店からの振込口座をわけていたので、焼き鳥店からの振込口座の通帳だけを提出し、在留期間を更新することができました。 しかし、2019年の更新許可申請時は違いました。入管から届いたはがきに「賃金台帳」も提出するように書かれていました。賃金台帳は、勤務先が従業員の労働時間や給与などを記載する書類で、給与明細よりも詳しい内容になっています。しかも、はがきには、焼き鳥店だけではなく牛丼店の賃金台帳も提出するように書かれていました。入管が私の勤務先のことをどこかで調査し、両方の賃金台帳を提出するように指定してきたのです。 仕方なく両店で賃金台帳を発行してもらって入管に提出すると、再度はがきが届き、入管に出頭するよう求められました。指定日時に入管に行くと、個室に連れて行かれ、私のアルバイト勤務に関する調査資料を見せられました。担当官から「あなたは規定の時間を超えて働いたので、在留期間を更新出来ない」と言われ、私は日本に在留し続けることができなくなりました。 在留資格更新の分かれ目 私は留学のために約150万円の借金をしました。ベトナムの日本語学校に支払った学費や寮費以外に紹介手数料なども含まれています。日本での学費と生活費をまかない、借金も返済するためには、週28時間のアルバイトだけでは無理でした。しかし、今にして思うと、アルバイトをもう少し減らすことはできました。 【編集部からのアドバイス】 ・ティンさんがアルバイトをしすぎたのは、留学前につくった多額の借金が背景にあります。少ない借金で留学できるケースはたくさんあります。情報を集め、なるべく借金をせずに訪日しましょう。 ・ティンさん以外にもアルバイト時間の超過で在留期間を更新できず、途中で帰国する人はたくさんいます。ティンさんは「在留期間更新は学校の成績にも左右される。大学入学時は在留期間を2年間更新できたが、3年の時は1年間しか更新できなかった。大学での取得単位数が少なかったことが影響したと思う。今回も成績は悪かったので、厳しく調査されたのかも知れない」と話しています。 写真で見る私の日本留学 私は、日本で大学を卒業して日本で就職しようと思って訪日しました。その後、ベトナムの日系企業で働きたいと希望が変わりましたが、残念ながら卒業目前で帰国するはめになりました。たくさん仕送りをして家族に喜んでもらおうと思って働きましたが、こういうことになって残念です。今にして思えば、アルバイトを少し減らして、もう少し勉強すればよかったと思います。 帰国後すぐに仕事が見つかり、今はハノイの技能実習生送出機関で働いていますが、これから訪日するベトナムの後輩には同じ過ちを繰り返してほしくないと思い、私の失敗談を紹介しました。 最後に、私の留学生活を写真で振り返り、日本のよさ、留学の素晴らしさをベトナム人の後輩の皆さんにお伝えできればと思います。 ■ 2015年冬・東京 日本語学校の仲間たちと宴会。ベトナムや中国、ネパール、台湾などアジア各地から留学生が集まり、会話の共通言語は日本語でした。学期末試験の後などには、こうして大勢で飲みに行きました。 ■ 2015年12月・箱根 日本語学校の旅行で、1泊2日で箱根へ。この日本語学校では、半年に一度、みんなで旅行に行きました。宿で夜遅くまで仲間とおしゃべりできて、楽しかったです。 この日は雪が積もっていました。東京でも雪は何度か体験しました。雪が降る眺めはきれいでした。 ■ 2016年3月・日本語学校卒業 日本語学校の卒業式の会場前で記念撮影。いろんな国の人と一緒に学びました。【東京都内で】 ■ 2017年・大学2年(アルバイト仲間) 焼き鳥店のバイト仲間と(手前が私、中央のバンダナの女性はベトナム人、他の5人は日本人)。バイト仲間には日本人の大学生や専門学校生が多かったです。 焼き鳥店のバイト仲間(全員ベトナム人)と東京で花火大会を見物。日が暮れる前からこうして席取りをし、花火が始まるのを待ちました。 ■ 2019年・大学4年 ベトナムで通った日本語学校の同窓生と時々、こうして同窓会。日本での進路は、就職、専門学校、日本語学校、大学など様々。【東京・池袋の居酒屋で2019年春】 授業がないときは、キャンパスで同じ学部のベトナム人仲間(4年生)と歓談。この時は、在留期間更新許可申請の結果がまだ出ていませんでした。【開知国際大学で2019年6月】 ■ 2019年・大学4年(帰国直前) 帰国することになり、牛丼屋のバイト仲間が開いてくれた送別会。奥の2人は日本人で、「寂しくなる」と言ってくれました。【2019年8月1日】 同じ大学のベトナム人の友人宅で2人でお別れ会【2019年8月6日】 焼き鳥店や牛丼屋でアルバイトをする日は、このような「まかない(従業員に格安で提供される食事)」をよく食べました。
2020年01月30日