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VOL. 92 日本の文学小説を多数翻訳・出版

ベトナムから海外留学する人がまだ少なかった1990年代に日本に留学したニエンさん。留学仲間の夫が沖縄で就職したため彼女も沖縄に長く住むことになり、その間に日本の文学小説をたくさん翻訳し、ベトナムで出版。最近は、沖縄に住むベトナム人技能実習生たちのサポートにも力を入れています。 今回の先輩 グエン・ド・アン・二エンさん 1994年ホーチミン国家大学東洋学部入学 1997年名桜大学で交換留学〈沖縄、1年間〉 1999年ホーチミン国家大学卒業 1999年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈2年間〉 2001年名桜大学大学院修士課程入学 2003年修士課程修了 2003年大阪府立国際児童文学館外国人研究員〈6カ月〉 2004年ホーチミン国家大学東洋学部で日本語講師〈4年間〉 2004年TRE出版社で日本語通訳・翻訳〈4年間〉 2011年名桜大学附属図書館でアルバイト〈5年間〉 2011年名桜大学非常勤講師〈現在も〉 2022年沖縄大学非常勤講師〈現在も〉 〈1976年生まれ、ホーチミン市出身〉 ◆このページの内容 •...

2023年06月12日
  • VOL. 91 来日後も勉強を続け職場のリーダーに

    2023年05月29日
    食品工場で技能実習生から特定技能外国人になったトゥエットさん。彼女は、来日直後は日本人の話すことが全然わかりませんでしたが、毎日3時間勉強を続け、数カ月で少し会話ができるようになり、2年でJLPT・N3に合格しました。今は、職場のベトナム人のリーダーとして活躍しています。 今回の先輩 グエン・ティ・トゥエットさん 2017年高校卒業〈ハイズオン省〉 2018年送出機関で約半年間勉強〈ハノイ〉 2018年来日→講習→技能実習〈福岡県〉 2021年特定技能外国人〈同じ会社〉 〈1999年生まれ、ハイズオン省出身〉 ◆このページの内容 • 幼いころから母をサポート • 技能実習の送出機関 • 日本での仕事の内容 • ベトナムに送ったお金 • 私の家計簿 • 休日の過ごし方 • ミスコンテストで入賞 • 日本語の勉強 • 将来の夢 幼いころから母をサポート 家族と親せき(右端が母) 私が2歳のとき、父が交通事故で亡くなりました。母はその後、1人で田畑を耕(たがや)して、私と弟を育ててくれました。母は米や野菜、果物を栽培し、私もときどき朝早く起きて、水路からおけで水をくみ、畑にまきました。私はこのように畑仕事を1時間ぐらい手伝ってから学校に行きました。また、6歳のときから母の料理を手伝い、12歳からは料理も掃除も私が1人で担当しました。 私の故郷では、日本に出稼ぎに行く人も多かったので、私も高校生のころから「将来は日本に行きたい」と思っていました。 お金を稼いで母を楽にしてあげられますし、自分のお金も貯めて、将来は故郷でブティックを開業したいという夢があったからです。そして、高校を卒業すると、親せきがハノイの送出機関を紹介してくれました。 技能実習の送出機関 私は高校を卒業してから約半年間、母の仕事を手伝い、技能実習の採用面接(今の会社の面接)に合格すると、ハノイの送出機関に入って日本語を勉強しました。面接には約150人が参加し、40人が選ばれました。 私は送出機関に7200 USDを米ドルで支払いましたが、契約書や領収証に書かれた費用は3500 USDでした。また、これ以外に寮費や食事代、日本に持って行く服など、約25万円(約45,000,000 VND)を使いました。 【編集部からのアドバイス】 送出機関の費用7,200 USDはベトナム政府の規定を大きく超えています。 高い費用を払っても、よい会社を紹介してもらえるとは限りません。 送出機関を選ぶときは、親せきや知人の紹介だけに頼らず、インターネットの口コミなども調べましょう。送出機関に無駄なお金を払わないために、KOKOROの記事もよく読んでください。 external link KOKORO|送出機関を決める前にこれだけは知っておこう! external link KOKORO|技能実習の費用と注意点 日本での仕事の内容 私は技能実習生として2018年8月に来日しました。私の職場は大きな弁当工場です。コンビニで販売する弁当やおにぎり、チルド食品(親子丼、オムライス)などを作っています。私の最初の仕事は、できあがった弁当を箱に詰め、台車に乗せてトラックの近くに運ぶことでした。ご飯やおかずを弁当箱に詰める仕事もときどきやりました。そして、3年間の技能実習が終わり、特定技能に移ってからは、厨房(ちゅうぼう)で各レーンに食材や調味料を配る担当になりました。 ところで、私の勤務は夜勤だけで、勤務時間は19時から翌朝6時まで(途中で休憩1時間)です。日勤のベトナム人は約50人、夜勤のベトナム人も約50人で、私は来日して2年目から夜勤のベトナム人のリーダーをしています。これは、私の日本語力や勤務態度が評価されたからで、リーダーとしての手当も付いています。 ベトナムに送ったお金 改修した実家の前で母と私 技能実習生のときの私の手取り給料は毎月15万円~17万円でした。毎月35~40時間の残業があり、深夜勤務手当てもあり、リーダー手当もあったので、かなり高い給料です。そして、特定技能外国人になってから手取り給料は毎月18万円~20万円に上がりました。私は来日して最初の1年間で約125万円をベトナムに送って来日前の借金を完済し、その後3年間でさらに約360万円を送り、一部は実家の改修に使ってもらいました。 ただ、日本に来てからずっと夜勤なので、体調が悪くなってきました。4年目から昼間の勤務に変更してもらった同期生もたくさんいますが、夜勤の方が日勤より毎月約3万円多くもらえるので、私は夜勤を続けてきました。しかし、疲れがたまってきたので、近いうちに会社に相談して日勤に変えてもらうつもりです。 私の家計簿(1カ月の平均) ※今の職場での家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:180,000円 給料 ¥180,000 *税金や社会保険、寮費、水道・光熱費などを引いた手取り給料 *寮費(14,000円)、電気・ガス・水道(10,000円) 支出:80,000円 食費(主に自炊) ¥40,000 生活雑貨、衣類、化粧品など ¥15,000 交際費、外食費など ¥35,000 毎月の差額:100,000円 休日の過ごし方 在日ベトナム人の間ではサッカーが盛んで、福岡でもベトナム人チームの試合や大会がよくあります。私は日曜によくサッカーの試合を見に行きます。試合会場に行くと、同じように応援に来ている人たちと友だちになれるので、一緒にお弁当を食べたり遊びに行ったりしています。 また、休日にベトナムの伝統的舞踊であるmúa(ムア)の練習をすることもあります。私の住む博多市内で地元の著名ベトナム人が自分の借りている部屋を開放し、ムアのダンスクラブ(参加費無料)を開催しています。そこに技能実習生や特定技能外国人が5、6人集まって練習をしています。ベトナムの幼稚園や小学校でムアを習いますが、私は高校生のときもYouTubeでムアの踊り方を研究して練習していました。大好きなムアを踊ると、ストレスが解消されます。 ミスコンテストで入賞 大きなミスコンで入賞〈福岡県で2022年1月〉 福岡では「在福岡ベトナム人協会」などベトナム人団体の活動が盛んで、毎年テト(旧正月)の時期に大きなお祭りがあります。そのときにミスコンテストも行われますが、私もインターネットでミスコンのことを知って参加したところ、入賞しました。 賞金をもらったほか、ミスコンの様子を公式動画に収録してもらいました。それ以外に、地元のアオザイ大会でも優勝しました。 日本語の勉強 私は来日前に約半年間、送出機関で朝から夕方まで日本語の授業を受け、夜も3、4時間自習しました。それでも、日本に来たばかりのときは、日本人の話す言葉が全然わかりませんでした。 しかし、来日後も毎日3、4時間勉強を続けたところ、3、4カ月で少し話せるようになり、今では毎日、職場の日本人と話をしています。このため、2年目からは職場のベトナム人のリーダーに選ばれ、日本人がベトナム人に仕事を指示する際に通訳をすることもあります。また、日本に来たばかりの実習生は日本語がまったく分からないので、約2カ月間、日本人と私が一緒に仕事を教えます。 こうして日本語を話せるようになったので、職場の日本人やネパール人留学たちと仲良くなり、仕事が終わってから日本語で少し話をしています。日本人の先輩と一緒に寺や公園に観光に行ったこともあります。 帰国後に日本語力を生かして送出機関の日本語の先生になろうと思っていた時期もありました。そのため、毎日3時間、眠いのをがまんして日本語の勉強をしていました。そして、来日して2年で日本語能力試験(JLPT)のN3に合格しましたが、その後、日本語教師の給料があまり高くないことがわかり、最近は以前ほど勉強しなくなりました。 将来の夢 ハイズオン出身の福岡の友だち 私は技能実習を3年やり、もうすぐ特定技能も2年になります。日本で覚えた技術を母国に持ち帰って経済発展に生かすのが技能実習の建て前ですが、私も仲間も日本で働いて覚えたことを帰国後の仕事に生かすことは考えていません。そもそも、ベトナムでは日本ほど弁当が売れていないので、弁当工場もありません。 今後のことはまだ確定していませんが、多分、あと2、3年働いてベトナムに帰国し、故郷のハイズオンで結婚相手を探すと思います。日本の生活も楽しいですが、母や昔からの友だちに会えないのは寂しいので、やはり故郷で暮らす方が私には向いています。そして、日本で働いたお金の一部は母にあげ、残りのお金で婦人服を売るブティックを開業するのが私の夢です。
  • VOL. 90 寝ても覚めても勉強し3年でN1合格

    2023年03月31日
    日本に留学してまもなく「自分で努力しなければ、いつまでたっても日本語で会話できるようにならない」と気づいたウットさん。空いている時間はいつも日本語を勉強し、3年でN1に合格。日本での就職や帰国後の日系企業への就職でも大いに役立ちました。 今回の先輩 タ・ティ・ウットさん 2011年高校卒業 2012年日本語学校入学〈福岡県〉 2014年専門学校入学〈福岡県〉 2015年結婚、JLPT・N1合格 2016年専門学校卒業 2016年日本で就職〈愛知県〉 2017年夫の転勤に伴い帰国 2017年HISハノイ支店入社(正社員) 2019年出産 2020年日系の会計事務所入社〈ハノイ〉 〈1993年生まれ、ハノイ出身〉 ◆このページの内容 • 準備不足で訪日 • 日本語学校と専門学校に留学 • 学校選びに失敗 • 寝ても覚めても日本語を勉強 • アルバイトでたくさん日本語会話 • 私の家計簿 • 日本で留学生と結婚 • 夫の転勤で帰国 • ハノイで日系企業の正社員に • 別の日系企業に転職 • 日本留学で得たもの 準備不足で訪日 私の姉は2010年から日本に留学し、その後、日本人と結婚して今も日本に住んでいます。私は高校卒業後、姉に習って日本に留学することにしました。その準備として、ハノイの日本語センターの寮に住んで3カ月間勉強しました。その間は授業を含めて毎日6時間勉強しましたが、日本で暮らすために日本語がどれぐらい必要かわかっていなかったので、今から思うととても不十分な勉強でした。 ひらがな、カタカナと簡単な会話しか覚えずに日本に行った私は、当初、言葉のことでとても苦労することになります。 日本語学校と専門学校に留学 日本で一緒に暮らした姉(右) 私は2012年10月、姉が通っていた福岡市の「西日本国際教育学院」という日本語学校で留学を始めました。最初の3カ月間は学校の寮に住み、4カ月目からは姉と一緒に暮らしました。 日本語学校で1年半学んだ後、私は「国際貢献専門大学校」という専門学校に進みました。この学校は、私が通った日本語学校の系列校です。本当は他の大学か専門学校に行きたかったのですが、系列校に進学すれば学費が割り引かれるという特典にひかれてその専門学校を選びました。しかし、この学校を選んだことを後で大きく後悔することになりました。 学校選びに失敗 私はこの専門学校でITを学ぼうと思い、「情報ビジネス」を専攻したのですが、専門分野の授業はほとんど受けられませんでした。当時、この学校はできたばかりで、学校の準備不足によってITの教師が不足していたのです。 IT関係の授業は休講続きで、代わりにいつも日本語の授業を受けされられました。しかも、私は専門学校に入る前に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、当時はN2・N1を目指していたにもかかわらず、専門学校の日本語授業はN3・N4レベルでした。私は担任の先生に「もっとITの勉強をしたい」と何度も訴えましたが、何も改善されませんでした。後輩の皆さんは学校の評判をよく調べてから進学先を選んでください。 寝ても覚めても日本語を勉強 留学を始めて最初の数カ月間、私は日本語力不足でアルバイトが見つかりませんでした。友人からアルバイトを紹介してもらっても、工場など日本語を話さなくてもよい職場ばかりでした。私はまわりの日本人が話す日本語がほとんどわからず、自分の言いたいことも伝えられず、ストレスがたまっていつも家で泣いていました。 そして、「日本語がわからないと何もできない」「自分で勉強しないと、どれだけ日本人と交流しても話せるようにならない」と気づき、猛勉強を始めました。学校の授業以外に、昼でも夜でも休日でも空いた時間はできるだけ日本語を勉強し、アルバイト先でも上司や先輩とできるだけ会話するようにしました。 その結果、私は留学を始めて9カ月後にJLPT・N3に合格し、その2年後にN1に合格しました。最初は「みんなの日本語」を使い、N2・N1対策には市販の問題集を使いました。また、自分の好きなYouTubeチャンネル(日本語)を聴いてリスニングの練習をしました。 アルバイトでたくさん日本語会話 アルバイト仲間の日本人たちと焼肉会 日本語が話せるようになるにつれ、日本語を使うアルバイトに採用されるようになりました。そうなると、仕事をしながら日本語の練習ができ、わからない言葉や言い方は日本人の先輩や同僚に教えてもらえるので、日本語の会話力が急速に伸びていきました。 アルバイト探しについては、友人に紹介してもらうか、無料の求人情報誌を見て店に電話をかけ、面接を申し込みました。そして、アルバイト先の先輩や仲間と仲良くなり、一緒にご飯を食べに行くこともよくありました。また、クリーニング工場のおばさんは自宅に私と友人を招いてくれました。これらの人たちの中には、今もFacebookなどで連絡を取り合っている人もいます。 ◎私が日本で経験した主なアルバイト クリーニング 工場でクリーニングした大きなカーテンを2、3人でたたむ仕事。ホテルで使うカーテンでした。 ビジネスホテル ベッドメイキング、清掃 居酒屋 ホール(接客)、片付け、開店準備 レストラン キッチン、早朝の仕込み(料理の準備) 弁当店 キッチン、レジ 技能実習生の監理団体(組合) 通訳、技能実習生の生活サポート) 私の家計簿(1カ月の平均) ※専門学校時代の家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:120,000円~150,000円 給料 ¥120,000~¥150,000 ※アルバイト2、3件 支出:158,000円~160,000円 学校の授業料 ¥55,000 家賃(ワンルーム) ¥50,000 ※1に暮らし、Wi-Fi・水道代込み 電気・ガス ¥8,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 食費 ¥25,000 ※バイト先で無料のまかないを食べることも多かった。 雑費 ¥10,000 ※交通費、学習教材、衣類 毎月の差額:▲10,000円~38,000円 ※夏休みなどの長期休みに多く働いて不足を補いました。 日本で留学生と結婚 新婚時代の夫と私 私の姉は福岡で日本語学校から大学に進学しましたが、ある日、姉の大学の同級生のベトナム人男性が姉と私の家に遊びに来ました。ほどなくして私は彼と付き合うようになり、約2年半後、彼は大学を卒業して日本で就職することになりました。その少し前に私たちは結婚し、福岡のベトナム総領事館に婚姻届けを出しました。その後、私も就職が決まり、名古屋に引っ越して一緒に住みました。 私は就職するまで3年半留学しましたが、生活費や学費を稼ぐために早朝や夜にアルバイトをし、それ以外は勉強に打ち込んでいたので、休日は疲れて横になっていることも多く、旅行にはあまり行きませんでした。夫と知り合ってからも一緒に公園やゲームセンターなどでデートするぐらいで、観光はあまりしませんでした。今にして思えば、日本にいる間にもっとあちこちに旅行しておけばよかったと思います。 夫の転勤で帰国 帰国直前にベトナムの家族を名古屋に招待 私たちは2015年に結婚し、私は正社員の夫の妻として日本に在留する予定だったので、本格的な就職活動はしていませんでした。しかし、夫の勤務地が名古屋に決まると、私は家の近くでできる仕事を探し、この会社に履歴書を送って面接を受けたところ、携帯電話ショップを運営する会社の正社員に採用されました。 日本の携帯電話ショップの店員は携帯電話の端末を売る仕事よりも通信契約に関する対応が多いので、さまざまなことを覚えなければなりません。そのため、通常は入社後6カ月間の新人研修を経てやっと店に出ることができます。研修では、接客マナーやパソコン操作、さまざまなサービス内容を学びますが、私は3カ月で覚えることができ、通常より早く店に出ることができました。しかし、就職して1年半後に夫がハノイに転勤になり、私も退職して帰国することになりました。 ハノイで日系企業の正社員に HISハノイ支店の入っているビル〈2018年〉 2017年7月に帰国してまもなく、私は日本の大手旅行会社HISのハノイ支店で正社員として働き始めました。店のカウンターで日本人客(主に駐在員)に航空券やホテル、ツアーを手配する担当でした。個人がインターネットで航空券やホテルを手配することもできますが、会社の業務で出張する場合に旅行会社を使うと、経理処理に必要なインボイスが発行されますし、顧客サービスも良いので、HISを使う日本人はとてもたくさんいました。 ところで、私は帰国が決まってすぐにハノイでの仕事を探し始めました。しかし、日本と違ってベトナムでは面接に合格したらすぐに働き始めてほしいという会社がほとんどだったので、結局、帰国後にFacebookで仕事を探し直し、HISに入りました。 別の日系企業に転職 HSKVのパーティー 私はHISで約2年半働き、出産を機に退職しました。そして、2020年からはHSKV(HSK Vietnam Audit Company)という日系の会計事務所で働いています。私の仕事は会長(日本人)の秘書で、秘書業務以外に下記のような仕事も担当しています。 監査報告書や移転価格報告書、事業概況報告書などの翻訳 顧客企業の帳簿の入力 顧客企業の給与計算表のチェック 個人所得税の計算と申告 顧客企業の日本人駐在員の労働許可証・ビザ・レジデンスカードの申請 HSKVの仕事もFacebookで探し、給料はHISのときより約30%上がりました。転職したのは、HISでは土日の出勤もあったため、出産後の生活に合わなくなったためです。今の会社を選んだのは、朝8時~9時の間に出勤し8時間勤務すればよいというフレキシブルな勤務時間と自宅から近いことが決め手でした。 ハノイに戻って2つの日系企業に就職して思うのは、日系企業への就職には、履歴書の内容よりも面接での評価(日本語会話力や対人能力など)の方が重視されるような気がします。 日本留学で得たもの 私は留学中、学校選びに失敗したことをとても後悔しました。しかし、学校で専門知識は得られなかったものの、自分で日本語の勉強やアルバイトに一生懸命に取り組み、3年でJLPT・N1に合格できました。また、アルバイト仲間に日本語で積極的に話しかけ、会話も十分にできるようになったので、ベトナムに帰国して日系企業に就職する際にとても役立ちました。 留学せずベトナムで日本語を勉強する人も素晴らしいですが、留学経験者の方が全体的にリスニング力が高く、日本での生活やアルバイトも経験したということで、日系企業での就職には有利なようです。私は日本で留学できて本当に良かったと思います。
  • VOL. 89 「みんなの日本語」の解説本を翻訳

    2023年03月24日
    日本語を学ぶ外国人の多くが最初に手にする日本語の教科書「みんなの日本語」。その解説本4冊を1人でベトナム語に翻訳したドンア大学副学長のヴィンさん。ヴィンさんの日本留学体験や学生時代の勉強方法などを紹介します。 今回の先輩 ゴ・クアン・ヴィン さん 1998年高校卒業〈クアンチ省〉 1998年ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部入学 2002年ハノイ大学卒業 2002年日本の設計会社で勤務(通訳・翻訳)〈ハノイ〉 2004年国立ダナン大学外国語大学日本語学科で日本語講師 2008年一橋大学で研究生として留学〈東京〉 2010年一橋大学修士課程入学 2012年一橋大学博士課程入学 2015年一橋大学博士課程修了 2015年国立ダナン大学外国語大学日本語・韓国語・タイ語学部長 2020年ドンア大学副学長兼日本言語文化学部長〈ダナン〉 〈1980年生まれ クアン・チ省出身〉 ◆このページの内容 •「みんなの日本語」の解説本を翻訳 • 大学で日本語を学び日系企業へ • 私の日本語学習法 • 6年半の日本留学 • 私の家計簿 • 留学中の交流 • 留学中に困ったこと • ベトナム語の専門書を日本語で出版 • ドンア大学について 「みんなの日本語」の解説本を翻訳 日本語を学ぶ外国人の多くが最初に使う教科書「みんなの日本語」の「翻訳・文法解説」があるのをご存じの方も多いと思います。「みんなの日本語」は日本語だけで書かれているので、十分に理解できないときに「翻訳・文法解説」を読めば、内容が理解しやすくなります。私は2013~16年に「みんなの日本語」初級Ⅰ、初級Ⅱ、中級Ⅰ、中級Ⅱの「翻訳・文法解説」をベトナム語に翻訳しました。 この翻訳を始めたとき、私は一橋大学(東京)で留学していましたが、そのときの指導教官が私のベトナム語力と日本語力を高く評価し、出版社に推薦(すいせん)してくださったことがきっかけでした。翻訳する際には、もとの日本語の意味ができるだけ正しく伝わるベトナム語にしたいと思い、言葉をていねいに選びながら時間をかけて翻訳しました。 大学で日本語を学び日系企業へ 会社の仲間と日本の石炭鉱山の見学 私が高校のとき、有名な日本ドラマ「おしん」がベトナムで放送されていました。わたしは主人公・おしんのけなげな生き方や勤勉さ、ドラマに出ていた昔の日本家屋などがとても気に入って、日本についてもっと知りたくなりました。高校では英語コースでしたが、大学では別の外国語を勉強しようと思っていたこともあり、ハノイ外国語大学(現ハノイ大学)日本語学部に入りました。 私は大学で4年間日本語を学んだ後、新聞の広告欄で見つけた日系企業に入りました。これは木造住宅の構造設計をする会社で、私は日本人の社長や技術者たちとベトナム人スタッフとの間の通訳や書類の翻訳をするチームのリーダーとして働きました。その後、大学で日本語を教える仕事に興味を持つようになり、知人の紹介で国立ダナン大学の日本語講師になりました。 私の日本語学習法 ハノイ外国語大学の教室で 私は大学生のとき、大学のゼミや講義以外に毎日6~8時間、自習しました。インターネット上の学習素材も紙の日本語教材も少ない時代だったので、今よりも勉強に工夫が必要でした。そのときに私が行った勉強方法を紹介します。 新聞の1面のコラムを読む:私は日本の新聞の1面のコラムを読み、ほぼ毎日、その内容について大学の先生と日本語でディスカッションしました。 自分で文章を作って読む:参考書に書かれている語彙(ごい)や文型を使って文章を作り、自分で声を出して読みました。 ハノイ大学日本語学部の級友たちとお出かけ これ以外に、古本屋で日本の古新聞を買い、何度も辞書を引きながら読みました。言葉の勉強では、やはり辞書を使い込むことが大事です。それでも理解できない部分がたくさんあったので、私は大学でただ1人の日本人の先生にアポを取り、質問に応じてもらいました。ただ、当時ハノイには日本人がまだ少なく、ネィティブの日本人との会話練習がほとんどできないのは残念でした。 6年半の日本留学 修士課程を修了 ダナン大学で講師をしているとき、日本の文部科学省が提供する留学生向け奨学金に応募しました。そして、在ベトナム日本国大使館で試験を受けて合格し、国費留学生として日本に行くことになりました。留学先には東京外国語大学も検討しましたが、少人数で勉強・研究できる一橋(ひとつばし)大学を選びました。 こうして私は2008年10月に一橋大学の研究生として訪日し、研究生1年半、修士課程2年、博士課程3年の計6年半、文科省の奨学金で留学しました。そのうち約2年間は妻と一緒に暮らしましたが、妻が2011年に東日本大震災による原発事故を契機に帰国してからは妻子と離れて留学しました。 妻と息子 私は留学中はずっと学費無料で奨学金も受給していたので、アルバイトは最小限にしてできるだけ勉強をしました。しかし、毎年、お盆とテト(旧正月)に帰国するための旅費がかかり、普段は節約生活を強いられました。私がよく使った便は成田→香港→ハノイ→ダナンというルートで、乗り継ぎが悪いため安価でした。一番安いときは往復28,000円でしたが、留学中に燃油サーチャージ(12,000円~15,000円)を加算する制度が始まり、大きな痛手でした。また、当時はSNS電話がなかったので、30分3,000円の国際電話(当時としては格安)でたまにだけ妻と話しました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※博士課程のときの家計簿 ※100円=約18,218 VND(2023年2月2日現在) 収入:200,000円 奨学金 ¥150,000 給料 ¥50,000 ※アルバイト(通訳・翻訳、辞書作りの手伝いなど) 支出:100,000円 授業料 ¥0 家賃 ¥50,000 ※東京都内、ワンルーム 電気・ガス・水道 ¥5,000~¥10,000 携帯電話 ¥8,000 ※国際電話代を含む インターネット ¥6,000 食費 ¥35,000 ※昼は大学の食堂、夜は主に自炊。 交際費 ¥15,000 雑費・交通費 ¥20,000~¥25,000 ※衣類、教材、交通費、化粧品など 毎月の差額(貯金):60,000円 ※貯めたお金で帰国の際の航空券などを購入。 留学中の交流 ベトナム人仲間と東京で日本庭園(夜間ライトアップ)を見学 6年半も日本に住んだので、日本人との交流もたくさんありました。指導教官やゼミの仲間と食事に行ったほか、アルバイトを通じて知り合った人たちとも交流しました。 ベトナム人同士の交流もありました。国費留学に合格した同期のメーリングリストがあったので、日本に行ってから留学生同士の交流のきっかけになりました。 また、東京のベトナム大使館が独立記念日やテトの際に行うイベントもあり、そこでもベトナム人同士の交流ができました。 留学中に困ったこと external link KOKORO|花粉症について(※クリック) ところで、留学中に困ったこともたくさんありました。 休日に病気になったとき 休日に医療機関に行っても対応してくれず、困りました。留学3年目に花粉症になり、くしゃみと鼻水がひどく、とても疲れました。そこで、週末に2、3カ所の医療機関に行きましたが、休日なので受け付けてくれず、どうしたらよいかも教えてくれませんでした。その後、平日になんとか時間を作ってクリニックに行き、薬を処方してもらいました。また、ひどい腹痛のときに近くの病院に電話しましたが、「大きな症状やけがなら診(み)るが、今回は無理です」と断られ、がまんするしかありませんでした。いずれも機械的な対応で、「外国人だから対応が悪いのでは」と感じました。日本は外国人向けの公的な救急医療制度をもっと充実させるべきだと思います。 external link KOKORO|日本での住宅の探し方(※クリック) 住宅探し アパートを探すとき、外国人だから借りられない物件がたくさんありました。その後、当時よりはましになったものの、今も外国人お断りの物件が多いと聞きます。 外人扱い 電車内でベトナム人同士で会話していると、そばにいた日本人たちが向こうに行ってしまいました。日本の電車内でのマナーを理解して私たちは小さな声でしゃべっていたのに、そのような行動をされ、残念でした。また、電車内でくしゃみをすると、マスクをしていても周囲から冷たい視線を受け、これも外国人への偏見のように感じました。このため、かぜをひいたときは電車に乗るのがおっくうでした。 日本人はもっと外国に出て国際感覚を高めてほしいですし、日本の行政は外国人が居心地よく暮らせるように、地域の外国人サポート窓口をもっと充実させてほしいと思います。 ベトナム語の専門書を日本語で出版 external link この本のAmazonでの販売ページ(※クリック) 2015年に留学を終えた私はその年から国立ダナン大学 外国語大学の日本語・韓国語・タイ語学部長になりました。そして、2020年にドンア大学の副学長兼日本言語文化学部長になりました。 私は留学中に日本語教育やベトナム語の類別詞について研究しました。類別詞とは名詞の数え方です。例えば日本語で「一つ」「1枚」「1個」などと数えるときの「つ」「枚」「個」などが類別詞で、ベトナム語ではどのような類別詞があるのかを留学中の博士論文にまとめました。この論文を帰国後にさらに精査して書き直し、2023年に「現代ベトナム語の類別詞研究: 類別詞の本質とその意味・用法」という日本語の専門書を出版しました。Amazonでも購入できますので、ベトナム語の研究者や教師・学習者の方々に活用していただければ幸いです。 ドンア大学について 最後に副学長兼学部長としてドンア大学日本言語文化学部について紹介します。当学部では次のような点を重視して日本語教育を行っています。 日本語を「読む・書く・聞く・話す」ために必要な基礎学力と専門知識を養い、日本語で考える力や日本語コミュニケーション力の向上を目指しています。 日本文化を深く多角的に理解する人材を育てるため、インターンシップや文化交流、交換留学などのプログラムを充実させています。 ダナンの日系企業で見学や研修を行い、日本語を活かした仕事への理解や日本語コミュニケーション力の向上に努めています。 こうしたプログラムには、私や教師陣の留学経験も活かされています。

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【在ベトナム日本国大使館後援】

  • Vol. 82 日本語マスターのために技能実習

    「日本人と交流して日本語を学ぶ」という目的で技能実習生として日本に行くことを決めたヴァンさん。日本では「ボランティア日本語教室」を活用。職場で見つけた日本人の友だちともたくさん交流し、日本での3年間でJLPT・N2に合格しました。 今回の先輩 ホ・ティ・テュイ・ヴァン さん 2009年  高校卒業 〈ホーチミン〉 2012年  ホーチミン市工業大学附属高等専門学校卒業 2012年  日研精密工業入社〈ホーチミン〉 2015年  技能実習生として来日〈大阪府〉 2018年   ベトナムに帰国 2019年 日系企業の営業部勤務〈現在も〉 〈1991年生まれ、ハティン省出身〉 ◆このページの内容 •日本に行くことを決めた理由 •低費用で良質の送出機関 •ボランティア日本語教室 •日本人との交流 •大学の食堂で勉強 •私の家計簿 •親切な監理団体(組合) •日本人の親切さ •帰国後は日系企業に勤務 日本に行くことを決めた理由 ホーチミンの会社の同僚たちと 私は高等専門学校(経理専攻)を卒業後、日本の部品メーカーのホーチミン事務所で経理として働きました。日本人2人、ベトナム人4人の職場でしたが、私以外のベトナム人3人は日本語を話せたので、仕事を進めるうえで、自分だけが同僚に通訳・翻訳を依頼しなければなりませんでした。 それが悔しくて、ホーチミンの有名な日本語学校(月~金、毎日2時間)に5カ月間通いましたが、思うように日本語が身につかず、もっと徹底して日本語や日本文化を勉強したいと思うようになりました。そんなときに技能実習制度を知りました。私は「留学に行くほどの資金はないが、技能実習の3年間で日本語を身につける人も多いので、自分も挑戦してみよう」と考えて技能実習に応募しました。 低費用で良質の送出機関 CICSで日本語の先生や同級生たちと(前列右が私) 送出機関はホーチミンのCICSを選びました。友だちの友だちがそこで勉強していたからですが、評判を調べた結果、日本語教育レベルの高い会社だったので、そこに決めました。CICSには日本人の先生もいましたCICSでの日本語の授業は毎日約8時間で、授業後に自習も約2時間しました。こうした準備を約半年間重ねた後、大阪の工場で働くために訪日しました。 ところで、CICSはベトナム政府が決めた手数料を守っている数少ない送出機関の一つだったので、私は自分が働いて貯めたお金だけでCICSへの支払いをまかなうことができました。 ボランティア日本語教室 日本語教室の廊下で生徒仲間の外国人たちと 私は日本で約2年半、「ボランティア日本語教室」に通いました。私が勤務していたのは大阪府茨木市で、教室は隣の吹田市にありました。吹田市国際交流協会が主催する教室で、授業は週に2回、毎月の月謝は約500円でした。授業内容は、水曜が年配の男性とマンツーマンで会話、土曜はその先生の奥さんやほかの先生と4、5人の生徒で会話をしました。 来日前に送出機関の先輩から「ボランティア日本語教室」を勧められていましたが、探し方がわからないので、職場で仲良くなった同じ年齢の日本人女性に探してもらいました。17時に仕事が終わり、自転車で駅まで行って約30分間電車に乗って教室に行き、18時から授業を受けました。仕事で疲れているので、眠り込んで電車を乗り過ごしてしまうこともときどきありました。 external link KOKORO:ボランティア日本語教室の探し方 日本人との交流 日本語教室の先生から頂いた本 ボランティア日本語教室の良さは日本語を勉強できることだけではありません。一生懸命に勉強を続けていると、先生方と仲良くなり、個人的な交流も生まれます。 先生方は私のことを親しみを込めて「ヴァンちゃん」と呼んでくれるようになり、私も先生方を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりました。 「お父さん」「お母さん」は日本での生活に関するさまざまなことを教えてくださいました。また、自分で栽培したトマトやキュウリを私に持ち帰らせてくれることもありました。お正月には2人の自宅にも招いていただきました。私は帰国してからもときどき、2人にLINEで近況報告をしています。 また、職場でも、私と同じ年齢の日本人女性と友だちになれました。 別の部署の女性でしたが、会社で会うといつも笑いかけてくれるので、私から話しかけて仲良くなりました。彼女とは、仕事後に一緒に外食をしたり、彼女の家で一緒にご飯を作って食べたりしました。最後の1年は同じ部署になり、一緒に働くことができて、とても楽しかったです。 また、数年年上の女性も、私が休憩時間に自動販売機の前でドリンクを飲んでいると、話しかけてくれました。私は「話す機会を増やすことが外国語の上達に必要」と考えていたので、まだ日本語がつたなかったときからその人にも積極的に話しかけ、たまに一緒に外食するようになりました。 大学の食堂で勉強 私が夕食と勉強に使った大学の食堂 日本語教室や職場で日本人と会話をする機会を得ましたが、ボキャブラリーを増やすには通常の勉強も欠かせません。私は毎晩、平日の仕事後に日本語を勉強しました。勉強の場所は寮から自転車で約30分のところにある大学の食堂でした。日本では、小さな大学の場合は、部外者が敷地に入れない場合も多いですが、伝統的な大学や大きな大学なら、多くの場合、キャンパスや施設の一部(食堂など)を一般の人にも開放しています。 私が通ったのは有名私立大学の食堂で、日本語教室の「お父さん」がこの食堂のことを教えてくれました。私は仕事後、自転車で食堂に通い、ご飯を注文するほか、自分で日本語の問題集を解いたり、学生同士が話しているのを近くで聞いたりして日本語を勉強しました。こうして、私は訪日した翌年に日本語能力試験(JLPT)N3に合格し、3年目にN2に合格しました。ベトナムに帰国後はN1に合格するための勉強を続けています。 私の家計簿(1カ月の平均) ※技能実習生時代の家計簿 ※100円=約17,328 VND(2023年1月14日現在) 収入:108,000円 給料 ¥108,000 *税金や社会保険、寮費などを引いた手取り給料 支出: 58,000円 外食(大学の食堂) ¥10,000 外食(職場の日本人やほかの友人) ¥10,000 食材・生活雑貨 ¥20,000 その他(服、化粧品、旅行など) ¥18,000 毎月の差額:50,000円 親切な監理団体(組合) 組合の人たちや他社の技能実習生と交流会 私の技能実習の監理団体(組合)は大阪市にある西日本技能センターでした。この組合は私たちの日本語学習をサポートしてくれたほか、他社の技能実習生と交流できるイベントを開いてくれたり、困ったときに親身に相談に乗ってくれたりしました。 日本語学習については、組合は私たちのレベルに応じて教材を選び、提供してくれました。そして、クリスマスやお正月などにいくつかの会社の実習生を集めてパーティーを開き、夏には海水浴場に連れて行きバーベキューを食べさせてくれました(ここ数年は新型コロナで休会中のようです)。 【編集部からのアドバイス】 技能実習では、送出機関、監理団体(組合)、受入会社のすべてが適切な対応をすることが大切ですが、そのような組み合わせは決して多くはありません。 そこで、最初に送出機関にアプローチするのではなく、まず評判の良い組合に連絡して良い送出機関を紹介してもらうという方法もあります。その場合、良い送出機関と良い組合に面倒をみてもらえる可能性が高くなります。 この体験談の筆者が使った監理団体は 「協同組合 西日本技能センター」です。 https://www.facebook.com/japanskill/ ※ベトナム語で問い合わせができます。 日本人の親切さ 電車を間違って降りた駅の周辺 ところで、私は日本で3年間暮らし、日本文化が大好きになりました。特に心ひかれたのは日本人の親切心です。例えば、私が訪日してまだ1カ月ぐらいのころ、電車を間違った駅で降り、携帯電話も持っていないので地図アプリも使えず、道に迷ってしまいました。そこで、たまたま見つけた交番に入って片言の日本語で警察官に相談すると、間違った駅で降りたことを教えてくれ、その駅まで連れて行ってくれました。その後、電車に乗り直して正しい駅で降り、無事に目的地にたどり着くことができました。 また、日本の電車の駅の周辺では、許可された場所以外に自転車を置くと、行政が自転車をトラックで運び去り、保管場に保管します。そこに自転車を取りに行って有料で返してもらうシステムです。私は訪日して間もないころ、それを知らず、駅前に自転車を置いて撤去されました。盗まれたと思って交番に行き、相談すると、撤去のシステムや保管場への行き方などについて親切に教えてくれました。 帰国後は日系企業に勤務 私の技能実習先はゴム製品を作る工場で、私は製品検査や材料の裁断、社内文書の管理などを担当しました。3年間の技能実習を終えて帰国後、5カ月間は同社の系列会社で働きましたが、日本語を使って営業やマーケティングを担当してみたいと思い、求人サイトで今の職場を探しました。 今の勤務先は日系の部品製造会社で、私は営業担当としてお客様の会社を訪問したり、見積もりを作成したりしています。やりがいのある仕事で、技能実習で身につけた日本語力や仕事に関する考え方が今の仕事に役立っています。

    2023年02月02日

  • VOL. 81 大学中退→留学→デジタルデザイナー

    ハノイ工科大学を中退してFPT短大と日本の専門学校でデザインやアニメーションについて勉強したベトさん。留学後にデジタルデザイナーとして独立し、アイコンのデザインや日本アニメの字幕制作などを受注し、生き生きと働いています。

    2023年01月18日

  • Vol. 80 故郷で農園を開業したい

    ロイさんは高校を卒業後、姉に勧められてナムディンの日本語学校で1年半、日本語をとことん学びました。その結果、最初から大学で留学を始めることができ、卒業後は正社員として日本の果樹園で働いています。お金を貯めながら農業技術をたくさん覚え、数年後に故郷で農園を開業するのが夢です。 今回の先輩 ズオン・ティ・ロイさん 2016年 高校卒業 2016年 ナムディン日本語日本文化学院入学(1年半) 2018年 南九州大学入学〈宮崎県〉 2022年 さくら農園就職〈鹿児島県〉 〈1998年生まれ、バクニン省出身〉 ◆このページの内容 • ナムディン学院で日本語漬けの日々 • 校長のすすめで大学に留学 • アルバイト先で日本語上達 • 留学中の節約生活 • 私の家計簿(1カ月の平均) • 日本の果樹園に就職 • 果樹園での仕事 • ベトナムで農園を開くのが夢 ナムディン学院で日本語漬けの日々 高校卒業(右はしが私) 私の姉2人はベトナムの日系企業で働いており、2人とも日本語を話せるので、平均より高い給料をもらっています。上の姉は短大や日本での技能実習(3年間)で日本語を学んだほか、帰国後にナムディン日本語日本文化学院に通って日本語をマスターしました。下の姉は大学を出て就職しましたが、外国語ができる社員の給料が高いのを見て、上の姉と同じように技能実習生として日本で3年間働き、その間に日本語能力試験(JLPT)N3に合格しました。 私はハノイ大学で外国語を勉強したかったのですが、入試の点数が少し足りなかったので、姉が通ったナムディン学院で日本語を学ぶことにしました。 ナムディン学院で過ごした日々(左上が自習の様子) 私は高校卒業直後の2016年10月にナムディン学院に入り、2017年12月にN3に合格しました。ナムディン学院では、午前中は授業(約4時間)、午後は自習(約4時間)、夕食後にまた自習(約3時間)という日課でした。土日も仲間と一緒に約10時間自習しました。しかし、たまに気晴らしのために学校の仲間たちとダラットやフートー省などに旅行に行き、楽しい思い出もたくさんできました。 ナムディンでは安いアパートに住み、月に1度だけバスで4時間かけてバクニン省の実家に帰りました。毎月の授業料は2,000,000 VNDで、大半は上の姉が払ってくれました。 校長のすすめで大学に留学 仲間たちに見送られてハノイから日本へ出発 私の実家は裕福ではないので、留学はできないと思っていました。しかし、進路相談で「卒業後は日系企業で働きたい」と校長先生に相談すると、先生は宮崎県の南九州大学を勧めてくれました。南九州大学では外国人留学生の学費が半額なので、ナムディン学院の先輩たちが技能実習でためたお金や現地でのアルバイトで稼いだお金で通学しているという説明でした。 私は家族と相談し、この大学に行くことにしました。ここでは食品開発や農業などを学べますが、私は花や自然が好きなので農業を学ぶことにしました。そして、ハノイで南九州大学の試験(日本語、面接)を受けて合格し、2018年4月に留学を始めました。 アルバイト先で日本語上達 コミュニケーションが多かった寿司店でのアルバイト 大学での授業料は半額で年58万円でした。私は1年目だけ両親に学費を支援してもらいましたが、2年目からはアルバイトでほとんどまかなえました。アルバイト時間は法律で決められた週28時間以内に収めましたが、宮崎県は住宅費が安いので、節約すれば十分に生活できました。 主なアルバイトは寿司店とコンビニでした。寿司店はスマホのアプリ(日本語)で探し、コンビニは店に「アルバイト募集」という掲示がありました。寿司店では、私の名札を見て「どこの国から来たの?」とか「日本に何年住んでいますか?」などと話しかけてくれるお客さんがたくさんいて、日本語の練習に役立ちました。また、店のアンケートに「外国人の方と話ができてよかった」「これからもがんばってください」などと書いてくれるお客さんもいました。 社長から誕生日にいただいた手紙 社長や店長、従業員がみな仲の良い職場で、仕事が終わってから10人ぐらいで一緒に飲みに行ったり、週末勤務の休憩時間にみんなでランチを食べながらおしゃべりを楽しんだりしました。また、社長は毎年、お祝いと励ましの言葉を書いた手紙をくれました。 雰囲気の良い職場で親切な人たちに囲まれて日本語でたくさんコミュニケーションを重ねたので、寿司店で働くことで日本語がどんどん上達していきました。 留学中の節約生活 左上は留学生交流室。他の2枚は企業の農園。 2年目以降の留学費用をアルバイトだけでほぼまかなえたのは、授業料が半額だったのと、私が次のような工夫をしたからです。 アルバイトがない日は、授業後、大学の留学生交流室(机あり、Wi-Fiあり)で夜10時まで勉強しました。朝もコンビニで働いたので、アパート滞在時間が短く、光熱費が安くすみました。 アルバイト先で年上の同僚女性から古着をよくもらい、自分では服をあまり買いませんでした。 アパートのベランダや大学の実習で作った野菜を自分で食べました。3、4年生のときは、大学が提携している企業の農園(約700㎡)でも留学仲間と一緒に野菜を栽培し、自分たちで食べるほか、一部はFacebookを使って販売しました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学留学時代の家計簿 ※100円=約17,920 VND(2022年12月22日現在) 収入:100,000円 給料 ¥100,000 ※月によって¥80,000~¥110,000 支出:107,000円 学費 ¥48,000 家賃 ¥33,000 ※水道代とWi-Fi代を含む ※部屋は28㎡ 電気代・ガス代 ¥3,500 食費(主に自炊) ¥15,000 ※アルバイト先のコンビニで、売れ残りの弁当を安く買えることもあった。 携帯電話 ¥2,000 ※就活のため3年生後半から  ※UQモバイル 雑費 ¥5,500 毎月の差額:▲7,000円 ※夏休みなどの長期休暇時に長く働いてお金を貯め、毎月の不足を補いました。 日本の果樹園に就職 果樹園でのバーベキュー 鹿児島県にはナムディン学園理事長で元大学教授の神田嘉延(かんだ・よしのぶ)先生がいます。大学2年生(2019年)の秋、先生がナムディン学院の卒業生約10人を鹿児島県霧島市の「霧島さくらフルーツランド」に連れて行ってくれました。ここには44 haの敷地にたくさんの畑(ブドウ、なし、キーウィ、桃、リンゴなど)や約100棟のビニルハウスがあります。取れたての果物や加工食品などを販売棟で売っており、年間7、8万人が訪れます。 私たちはこの果樹園でバーベキュー料理を楽しみ、園内を見学しました。その後、大学4年の就職活動中に神田先生からこの果樹園で働くことを勧められ、先生の紹介もあって、果樹園の運営会社「さくら農園」で働くことになりました。 果樹園での仕事 「霧島さくらフルーツランド」では約50人が働いており、そのうちベトナム人が13人です。内訳は、技能実習生3人、特定技能外国人6人(ここの技能実習生から昇格)、日本人と結婚した元技能実習生1人(女性)、私を含む就労ビザ3人です。2カ月後に新たに4人の実習生も加わります。 職場では私が通訳をしていますが、実習生たちも日本語を勉強しています。毎週1回、会社の費用負担で日本人講師数人を招き、実習生に日本語を教えてもらっています。そのときに私も一緒に教えますし、ほかの日でも、実習生から質問されたら教えています。 <!-- チャンさん(左はし)と一緒に夫婦で茶道の先生のお宅を訪問 --> 職場では、私が日本人の指導者と技能実習生たちの間に入って農作業のこまかい指示を通訳し、自分もその作業を学んでいます。作業の一例を紹介します。 ブドウの新芽の中で不要な芽(生育の悪い芽など)を取り除く。これによって、残った芽に養分が集中しますし、芽が均等に育ちます。 ブドウのツルを支柱にからみつける。 粒の小さいブドウの房を切り落とす。これによって、残った房に養分が集中し、ブドウの甘みが増します。 瀬戸口さんの農業指導 農園の責任者・瀬戸口光広さんの話 どこの農園も人手不足に悩む中、うちはベトナム人スタッフたちのおかげで必要な作業を十分に行えるので、果物の品質が上がり、観光客からの人気も高まりました。 技能実習生は作業の意味を理解せずにやる傾向がありますが、ロイさんは作業の目的や手順をよく理解し覚えてくれるので、私たちも教えがいがあります。 ロイさんのお陰でベトナム人スタッフに作業の仕方を正確に伝えることができ、作業の間違いが減りました。また、彼らと日本人とのコミュニケーションが深まり、ベトナム人の定着に役立っています。 当園は海外に提携農園を持ち、マンゴーなどを輸入することを検討しています。ロイさんがベトナムに帰国したら、そのお手伝いをして頂ければと期待しています。 ベトナムで農園を開くのが夢 技能実習生たちの寮でパーティー 私は現在、さくら農園の中にある会社の寮に住んでいます。家賃(会社が半額補助)や水道・光熱費、Wi-Fi代を含めて月27,000円で済みます。このため、食費や交通費を引いても毎月10万円以上貯金できます。これ以外に技能実習生と違って年2回のボーナスもあります。日本で数年間働いたら、帰国してベトナムで自分の農園を開くのが夢なので、こうして貯めたお金をその資金にしたいと思います。環境にやさしいオーガニック栽培で果樹や野菜を育てるのが私の目標です。 果樹園の技能実習生と一緒に登山 私はさくら農園の就職面接で「日本で約5年働いたら、ベトナムに帰って自分の農園を開きたい」と打ち明け、さくら農園はそれを認めてくれました。無事に独立してベトナムで開業できた場合、さくら農園 の海外展開のお手伝いもできれば、とてもうれしいです。

    2022年12月29日

  • Vol. 79 JLPTの会場で出会って結婚

    帰国後に日系企業で良いポジションで働きたいと思い、技能実習中に日本語学習をがんばったオアインさん。3年間で日常会話ができるようになり、技能実習を2年間延長してもらえることに。さらにN1を目指して努力していると、JLPTの会場で運命の相手と出会いました。 今回の先輩 グエン・テュ・オアイン さん 2008年 衣料技術の専門学校卒業〈ホーチミン〉 2009年 Trường Cao Đẳng Công Thương TP.HCM(短大)入学〈ホーチミン〉 2011年 短大卒業 2012年 日系企業で勤務〈ホーチミン〉 2014年 技能実習〈秋田県〉 2017年 ベトナムに帰国。ホーチミンの会社で翻訳業務 2019年  2度目の技能実習〈秋田県〉 2021年 日本でベトナム人と結婚〈秋田県〉 〈1987年生まれ、ビンフック省出身〉 ◆このページの内容 • お金を稼ぎながら日本語を勉強 • ホーチミンの送出機関 • 3年間の技能実習で300万円送金 • 実習生たちに親切な社長 • 将来のために日本語を勉強 • 新制度で技能実習を再開 • ベトナム人コミュニティ • JLPTの会場で運命の出会い • できるだけ長く日本で お金を稼ぎながら日本語を勉強 ホーチミンの工場の前で同僚たちと(女性の日) 私は短大を卒業後、ホーチミンの日系企業で2年近く働きました。この会社は日本に輸出するためのバーバリーのコートやジャケット、ワンピースなどを製造する会社で、私の仕事は製品を検品し箱詰めすることでした。 私は事務職に移りたかったので、自分で「みんなの日本語」を勉強しましたが、なかなか日本語を話せるようにはなりませんでした。そんな私を見てトナム人の上司が「技能実習という制度で日本に行けば お金を稼げるし日本語も勉強できる」と教えてくれたので 私は日本に行くことにしました。実家が貧しかったので、両親にお金を送ってあげたいという気持ちもありました。 ホーチミンの送出機関 送出機関の教室で 技能実習生になるために入る送出機関は、私の上司の信頼する人が社長を務める会社を紹介してもらいました。ここでの日本語の勉強は毎日の授業が約7時間、夜の自習が3時間でした。送出機関で勉強したのは3カ月間だけで、準備期間としては短かったのですが、それ以前に自分で勉強していたので、少しだけ日本語を話せる状態で来日しました。 私が技能実習をすることになったのは秋田県の縫製会社でした。ベトナムで経験のある縫製の仕事に応募し、10人の受験者の中から3人の合格者の1人に選ばれました。送出機関に支払った費用は全部で4000 USDで、半分は自分の貯金をあて、残りは姉から借りました。 3年間の技能実習で300万円送金 私は2014年から3年間、技能実習生として働きました。技能実習生が約10人、日本人が約20人いる工場で、私たちは作業服をミシンで縫い、残業時間には検品をしました。実習生は、最初は中国人6人と ベトナム人3人でしたが、3年目はベトナム人だけになりました。 この会社でいただいた給料は訪日前に聞いていた内容と同じでした。適度に休日出勤や残業があり、手当はきちんと支払われました。また、秋田県は生活費も安いので、私は3年間で両親に約300万円を送ることができました。また、その後もう一度来日して2年半で約250万円を追加で送ったので、両親はこれらのお金でホーチミン市内に家を買うことができました。 実習生たちに親切な社長 社長が連れて行ってくれたパークゴルフ場にて 私はこの会社で働けて本当によかったです。社員は皆やさしいですし、社長も私たちにとても親切だったからです。例えば、社長は自分で会社のマイクロバスを運転して私たちをよく観光に連れて行ってくれました。桜の花見やイチゴ狩り、サクランボ狩りに連れて行ってくれたほか、従業員全員で宴会(12月の忘年会など)を開き、私たち実習生も呼んでくれました。 また、私たちの寮の近くに小さなスーパーがあり、普段はそこで食料品を買いますが、毎月1回、社長がマイクロバスで私たちを遠くの大きなスーパーに連れて行ってくれました。そこでは化粧品や服、特価の食品などを買い、みんなでランチを食べました。 <!--

    2022年12月27日

  • Vol. 78 起業を目標に新潟で留学

    ハノイの大学在学中にインターンとして日本で1年間働いて会話力をつけ、その後、新潟県の大学院に留学したリンさん。大学院では経営について学び、大学院や地元行政の支援も受けて卒業直後に新潟で起業しました。また、新潟のベトナム人コミュニティの活性化にも尽力しました。 今回の先輩 ファム・フォン・リンさん 2013年ハノイ国家大学日本言語文化学部入学 2017年沖縄でインターン(1年間) 2018年ハノイ国家大学卒業 2018年事業創造大学院大学事入学〈新潟県〉 2020年同大学卒業(修士号取得) 2021年起業〈新潟県〉 〈1995年生まれ、ハノイ市出身〉 ◆このページの内容 • 日本で1年間のインターンシップ • インターンシップ後に留学 • 起業支援が手厚い大学院に留学 • 留学生活の費用と収入 • 私の家計簿(1カ月の平均) • 新潟でのベトナム人仲間 • 卒業してすぐに起業 • これからも越日の架け橋に

    2022年12月16日

  • Vol. 77 日本の大学に就職

    ハノイの大学で日本語を学び、日本の大学院に国費留学したチャンさんは、そのまま日本で就職し結婚もしました。大学院では毎晩遅くまで研究に打ち込み、苦労もしましたが、名古屋でたくさんの人に出会い、大学を通じてさまざまな経験を重ね、日本で心豊かに暮らしています。 今回の先輩 チャン・トゥー・チャン 2008年ハノイ法科大学経済学部入学 2012年ハノイ法科大学経済学部卒業 2012年TMI法律事務所ハノイ事務所・弁護士アシスタント 2013年名古屋大学大学院修士課程入学 2015年名古屋大学大学院博士課程入学 2018年名古屋大学事務職員 〈1990年生まれ、ハノイ市出身〉 ◆このページの内容 • 日本語と法律を無料で学べる特別コース • 願いがかなって国費留学 • 映画の字幕と音声で日本語学習 • 通訳アルバイト • 日本でのベトナム人仲間 • 大学院をやめて就職 • 私の就職活動と家計簿 • 日本に残った理由 • ボランティア • 名古屋のここが好き 日本語と法律を無料で学べる特別コース 日本法教育センターの先生と同級生たち 私は海外に興味があり、子どものときから留学が夢でしたが、私費留学をする経済力がありませんでした。しかし、ハノイ法科大学に入ると、無料で日本語と日本の法律を学べる「名古屋大学日本法教育研究センター」があったので、応募して合格しました。このセンターで学ぶと、奨学金で日本の大学に行ける可能性があるからです。私はセンターの2期生でした。 名古屋大学日本法教育研究センター ・ハノイ法科大学の学部生(法学部、経済法学部)が対象 ・新入生がセンターに入るには、選抜試験を受ける。 ・応募は毎年150~200人。入試の成績やセンターの選抜試験(ひらがな、カタカナなど)の成績、面接を総合して25~30人を選ぶ。 ・センターでの授業は週6コマ(4年間)。追加の授業料は不要。 ・センターでの単位の一部は大学の卒業単位にカウントされる。 願いがかなって国費留学 大学院の先生とトーク〈修士2年のとき〉 センターの学生は4年生のときに推薦試験に受かれば、名古屋大学大学院で国費留学生として留学できます。私ともう1人が受験しましたが、私は不合格でした。私はどうしてもあきらめられず、卒業後も就職せずにセンターで勉強を続け、1年後に後輩たちと一緒に推薦試験に再トライし、今度は合格しました。最近は、卒業生が日本で留学するための民間の奨学が増えましたが、当時はほとんどありませんでした。 こうして私は2013年10月に名古屋大学大学院に入学し、修士課程の2年間、日本の国費で留学しました。授業料無料で国から生活費ももらいました。博士課程では授業料は払いましたが、文科省の奨励金(毎月20万円)をいただきました。(この奨励金制度は現在はありません。) 映画の字幕と音声で日本語学習 日本の映画でヒアリング練習(イメージ写真) 日本法教育研究センターでは質の高い日本語教育を受けました。ベトナム人教師以外に日本人講師も3人おられ、授業時間外にも会話練習の相手や作文のチェックをしてくださいました。先生方にはとても仲良くしていただき、学外でも交流させていただきました。 私は自宅での自習が苦手です。宿題はやりましたが、それ以上は自習しませんでした。その代わり、日本の映画やドラマ(ベトナム語か英語の字幕付き)を毎晩見て、聞き取れない会話をメモして覚えました。これによって日本語のヒアリングが上達しました。わからない言葉を調べたり、発音をまねたりもしました。JLPT(日本語能力試験)については、直前に問題集を集中的に解き、大学卒業の半年後にN1に合格しました。 通訳アルバイト 私は来日2年目から約1年半(週2回)、法学部の図書館で受付をしました。また、ティーチングアシスタントという指導教官の学部での授業のサポートもしました。授業の資料をコピーしたり、授業で小テストの回答用紙を回収したりする仕事でした。こうした学内アルバイトの情報は大学の留学生向けメーリングリストや大学の掲示板で知りました。 弁護士や警察の通訳以外に日越の経済交流会の通訳も担当 通訳・翻訳のアルバイトもしました。一番多かったのは、弁護士とベトナム人依頼者との間の通訳です。大学の先生の紹介で愛知県弁護士会の面接を受けて通訳として登録しました。民事事件では法律事務所で通訳をし、刑事事件の場合は弁護士と一緒に拘置所などに行って容疑者や被告(ベトナム人)と会いました。通訳アルバイトは一般のアルバイトの5倍以上の時給でしたが、時間を取られて研究に支障があるので、約1年半でやめました。 日本でのベトナム人仲間 私が日本でベトナム人仲間をどうやって作ったかをまとめました。 大学の仲間 ・名古屋大学にはたくさんのベトナム人がいますが、普段は大勢で集まりませんでした。私は文系の大学院のベトナム人仲間数人と仲良くしていました。 ・名古屋大学の大学祭や留学生向けのイベント(留学生歓迎会や旅行)を通じてベトナム人の友だちができました。 ベトナム人団体(VYSA) ・友だちと一緒にVYSA TOKAIのイベントにときどき参加しました。例えば、テト(旧正月)の集まりや紅葉狩りなどです。 同窓の集まり ・センターの同期や後輩が何人か日本に住んでいるので、今も交流しています。 アルバイト仲間 ・通訳アルバイトで通訳仲間(主に先輩たち)とのつながりもできました。 地域のベトナム人仲間とテトの集まり 日本法教育研究センターの後輩と花見 大学院をやめて就職 勤務しているオフィスがある名古屋大学の建物 私は最初の2年間は毎日深夜まで研究室に残り、ときどき徹夜もしました。体調を崩したので、3年目からは夜12時までに研究室を出るようにしました。法律書や判例の文章は難しく、法律用語の意味調べもあるので、日本の学生と比べて内容を理解するのに何倍も時間がかかりました。 2年で帰国して弁護士を目指すことも考えましたが、博士課程の試験に合格したので、3年目以降も日本で研究を続けることにしました。しかし、博士課程に進むときに研究科を変えたことも災いし、研究を進めて博士論文を書き上げることはかなり困難だと感じるようになりました。このため、悩んだ末に就職を目指し、名古屋大学の事務員に内定したので、博士課程3年の途中で大学院をやめました。 私の就職活動と家計簿 名古屋大学 名古屋大学では、事務職に「外国人枠」があり、私が応募したときは毎年1、2名を採用していました。事務職員になるには試験を受けなければなりませんが、外国人枠では試験が免除され、私は適性検査と作文と面接で採用内定をいただきました。 リクナビやマイナビでも採用情報を探しましたが、会社説明会には参加しませんでした。私は大企業に入ってステータスを得るよりも仕事のやりがいを重視していたので、国際化が進んでいる職場やベトナムと関係のある企業を探しました。そして、FPTソフトウェアと名古屋大学に応募し、どちらからも採用内定をいただきました。FPTはベトナムの巨大グループで、入社後はベトナムで働くことになっていましたが、私は日本に残ろうと決断し、名古屋大学を選びました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※就職後・結婚前の家計簿 ※100円=16,433 VND(2022年10月8日現在) 収入:250,000円 給料 ¥250,000 ※税金や社会保険料を引いた後の手取り額 ※残業時間によって総額は変動 ※ボーナスを除 支出:208,000円 家賃 ¥60,000 水道・光熱費 ¥15,000 食材費 ¥30,000 生活雑貨 ¥5,000 携帯電話 ¥3,000 美容・衣服 ¥10,000 医療・保険 ¥10,000 交際費(誕生日会など) ¥15,000 教育・教養 ¥10,000 ※資格試験のための教材・通信講座の費用 旅行・交通費 ¥20,000 実家に仕送り ¥30,000 毎月の差額:42,000円 日本に残った理由 修士課程2年のときの発表会(左)と修士課程卒業の日〈大学で〉 私は大学院を途中でやめることについて、奨励金に推薦してくださった教官に大変申し訳ないと思いました。それに、大学のことは好きで、大学には深く感謝していました。そこで、研究には行き詰まりましたが、別の分野で大学に恩返ししたいと思って大学の事務職に応募しました。帰国するか日本に残るかとても悩みましたが、最後は、大学への愛着が勝(まさ)ったのです。 また、日本人の恋人もいたので、そのことも日本に残りたい気持ちを後押ししました。その後、恋人とは結婚し、つい最近(2022年10月)、初めての子どもを出産しました。日本で家族ができましたし、今からベトナムに帰っても仕事のキャリアを一から積まなければならないので、これからも当面は日本で暮らす予定です。 ボランティア 長野県の牧場で「さをり」の作品販売。私もお手伝い。 私は来日前から、「さをりをベトナムへ」というボランティア活動に参加しています。中心メンバーの日本人の1人と大学時代にハノイで出会ったのがきっかけです。ベトナム戦争の枯れ葉剤の影響を受けた障がい者たちに「さをり」という布の織り方を伝え、彼らの織った布や作品を日本で販売して売り上げを彼らの施設に送るという活動です。 私の役割は、日本のメンバーがベトナムの施設とメールなどで打ち合わせる際の翻訳・通訳です。その役割を通じてわかったのは、日本人の計画性や目的を達成するためのプロセスの確かさです。例えば、メンバーがたまにベトナムに行きますが、訪問日程が決まると、何度も打ち合わせをし、訪問中の数日間で障がい者たちや施設スタッフに何をどのように伝えるかなど、細かく検討して準備をします。このようにして、10年以上さをりの織り方についてアドバイスを続けた結果、障がい者たちの技術が向上し、今ではとても高い品質の作品を作ってくれるようになりました。 名古屋のここが好き 私の好きな庄内緑地公園〈名古屋市〉 名古屋で多くの出会いがありました。Facebookで友だちになった経営者の男性からは、①自分のやりたいことをすると人生が楽しい ②自分のやっていることが何か社会の役に立つと人生の意味を感じる――ということを教えていただきました。こうした方々に感化され、私もやりがいのある仕事や、できれば社会貢献もしたいと考えるようになりました。 名古屋は東京ほど大きな都市ではありませんが、それでも十分に大都会ですし、教育環境も就職先も充実しています。ステキな人たちと交流できる機会も十分にあります。こうした環境や出会いを自分の人生に生かすにあたり、名古屋の雰囲気や街のサイズが私には合っていたように思います。名古屋に来られて良かったと、心から思っています。

    2022年11月02日

主催者

Nhà tài trợ Bạch Kim

後援

  • 在ベトナム日本国大使館
  • 国際交流基金ベトナム日本文化交流センター
  • JNTOハノイ事務所
  • 関西経済連合会
  • 一般社団法人 国際人流振興協会
  • 公益社団法人 ベトナム協会
  • NPO法人 日越ともいき支援会

協力

JASSO(日本学生支援機構)

外国人労働者弁護団

WA.SA.Bi.