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足を折りたたんで座る「正座」。日本の江戸時代(1603~1868年)、武士が将軍に会うときは、正座をすることで将軍への忠誠心を示しました。現代でも、茶道や華道、書道など日本の伝統文化で正座は正式な座り方とされ、日常生活でも、和室で目上の人と会うときは正座が原則です。ただし、日本で正座が広まったのはそれほど昔のことではありません。それでは、正座は日本でいつごろからどうやって広まっていったのでしょうか? この記事は5カ国語の総合メディアJAPOと共同で制作しました。ベトナムでは、JAPOのウェブサイトに毎月15万件のアクセスがあり、雑誌も毎月2万部を配布しています。TV番組もあります。 昔は「立てひざ」や「あぐら」が一般的だった あぐら かつては「立てひざ」や「あぐら」が一般的 正座は日本の奈良時代(710~784年)に中国から伝わったと言われています。しかし、長らく、正座をするのは、神様や仏様に祈るときや高貴な人にひれ伏す場合などに限られていたようです。 江戸時代(1603~1868年)までは、公的な場でも、男性も女性も片方のひざを立てて座る「立てひざ」の座り方が多かったそうです。その後、座禅(ざぜん)の座り方に近い「あぐら」という座り方(上の写真)も広まっていきます。 十二単の着物 平安時代(794~1185年)の女性貴族や宮廷で働く女性たちの姿が当時の絵に描かれていますが、彼女たちの正装は十二単(じゅうにひとえ)という着物でした。この着物は下半身の部分がゆったりし、あぐらで座ることを前提にデザインされていました。また、平安時代の女性が正座を崩した「横座り」でくつろぐ姿も当時の絵で見られます。 武士や茶道での座り方 「あぐら」をかく武士 江戸時代までは、武士も「あぐら」か「立てひざ」、「そんきょ(しゃがむ姿勢)」の座り方で座っていました。正座で座ると、足がしびれますし、立ち上がるのに時間もかかるので、周囲の人から急に襲われた場合に対応できないという事情もありました。 千利休 また、今は茶道をするときは正座が原則ですが、昔は「あぐら」でよかったそうです。最も有名な茶人である千利休(せんのりきゅう、1522~1591年)もあぐらで茶道をしていたことが、当時の絵から分かります。 正座が広まり始めたのは17世紀 将軍が正座を導入 正座が広まっていくきっかけになったのは、江戸時代(1603~1868年)の初期に将軍(しょうぐん:全国の武士のトップ)が各地の大名(だいみょう:各地の武士のトップ)や家臣(かしん:身近な部下)に会う際に、相手に正座を義務付けたことでした。 将軍はKing...
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【在ベトナム日本国大使館後援】
「新型コロナ対策の優等生」と言われたベトナムで5月以降、新型コロナウイルスの感染者が急速に広がっている。ベトナムではワクチン摂取が周辺諸国より遅れており、今年中に人口の75%をカバーするワクチンを準備する方針だ。日本政府は6月16日、約100万回分のワクチンをベトナムに向けて航空機で発送し、同日ハノイに到着した(無償提供)。 日本が無償提供 日本政府がベトナムに寄付した約100万回分のワクチンは英・アストラゼネカ製。台湾へのワクチン無償提供に続く第2弾の国際貢献となる。 ベトナムは、日本からの援助以外にも諸外国からワクチンを入手する方針だ。保健省は今年末までに人口の75%にあたる1億5000万回分のワクチン確保を目指すと表明し、外国からの入手に加えて国内生産も目指している。 5月以降に感染者急増 ベトナムでは5月以降、新型コロナウイルスの新規感染者が急増している。世界保健機関(WHO)の集計によると5月26日に過去最多の470人が新規感染。6月に入っても連日数十人の新規感染が報告されている。 入国制限や隔離対策の徹底で感染者数を押さえ込み、世界から「新型コロナ対策の優等生」と言われてきたベトナムだが、最近は感染経路の特定ができないケースが増え、感染が急拡大している。 ベトナムで新しい変異ウイルス発見 グエン・タン・ロン(Nguyen Thanh Long)保健相は5月29日、インドで見つかった変異ウイルスと英国で見つかった変異ウイルスが合わさった新たな変異ウイルスがベトナムで見つかったと発表した。その後、WHO(世界保健機関)の技術責任者はこの変異ウイルスについて「混合型ではなくインド型から派生したウイルスである」との見解を示した。 このウイルスは従来の変異ウイルスよりもさらに感染力が強いとされるものの、WHOは「英国、南アフリカ、ブラジル、インドで見つかった懸念される4つの変異ウイルスについては、従来の治療やワクチンが依然として有効」としている。 変異ウイルス発見を受け、日本政府はベトナムからの水際対策を強化している。これまでベトナムからの入国者には14日間の待機を求めていたが、このうち最初の6日間は検疫所が指定した施設での待機とし、入国後3日目と6日目に検査を求めている。 ワクチン調達に本腰 ベトナムのワクチン接種率は5月末時点で1%程度と言われており、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟10カ国中で最低となっている。グエン・スアン・フック国家主席は米国のバイデン大統領とロシアのプーチン大統領に書簡を送り、ワクチン入手への協力を依頼したという。 ベトナム政府は従来、英国のアストラゼネカ社などが開発したワクチンのほかロシアが開発したスプートニクVの使用を承認していた。さらに6月に入って中国のシノファーム社のワクチン使用も承認。保健省は年内に1億5000万回分のワクチンを調達する方針を発表し、各国の政府や製薬会社に協力を要請しているほか、保健省傘下の製薬会社で自前調達することも目指している。
2021年06月17日
今回の先輩 トー・ティ・ヒエンさん 2000年 高校中退、家業手伝い〈タイビン県〉 2001年 靴製造会社で勤務〈ハイフォン県〉 2007年 長女出産、縫製工場勤務〈タイビン県〉 2018年 送出機関登録 2019年 2月:訪日→講習→技能実習〈奈良県〉 2019年 9月:OTITによって保護 2019年 12月:新しい職場で技能実習開始〈岩手県〉 〈1984年生まれ、タイビン省出身〉 社長から「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた技能実習生ヒエンさん。送出機関社長もやってきて「あなたをベトナムに連れて帰る」と迫られたが、強制帰国寸前でOTIT(外国人技能実習機構)が出動!ヒエンさんは救出され、転職先も紹介してもらえることに。 〈このページの内容〉 • 娘の学費を稼ぐために日本へ • 訪日前の借金とその後の返済 • 過酷な労働と残業代不払い • 「もう会社に来なくてもよい • 絶望の帰国通告 • 「外国人実習生支援」にSOS • 外国人技能実習機構(OTIT)登場! • 新職場は別世界 娘の学費を稼ぐために日本へ 私の今の実習先〈2020年〉 私は、家が貧しかったので、高校2年の初めに学校を中退して母を手伝い、翌年からハイフォンの靴製造会社で働きました。当時は高校に行く人が少なく、私の周りでは半分もいませんでした。2006年に職場の地元の男性と結婚して妊娠し、退職しましたが、半年で離婚し、2007年1月に女児を出産しました。その9カ月後、縫製工場で仕事を始めました。娘は現在、中学3年生で、私の両親と一緒に暮らしています。娘の成績がよいので、私は娘の今後の学費を稼ぐために技能実習を志望しました。 訪日前の借金とその後の返済 今の職場での仕事〈岩手県で2020年〉 私は友人に紹介してもらったハノイの送出機関に登録し、支払いのために銀行から160,000,000ドン(約756,000円)を借りました。また、父の肺がんの治療のために、それとは別に140,000,000ドンを借りました。日本に来てから最初の職場で6カ月、今の職場で15カ月働き、借金はほぼ全額返済できました。今後は、技能実習の残り期間で娘の将来の学費をなるべく貯めたいです。また、3年間の実習が終わったら、技能実習3号として今の職場に戻りたいと希望しています。 前の職場では残業代をもらえず、毎月6、7万円しか実家に送金できませんでしたが、今の職場では毎月10万円送っています。父は病気、母も高齢です。自分たちの田畑を人に貸しているので、米や野菜は無料ですが、現金がないので、私の仕送りで3人の生活費と娘の学費をまかなっています。 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,240 VND(2021年3月11日現在) 手取り給料(平均140,000円) 手取り給料 137,000円~142,000円 ※税金、社会保険料、寮費を引いた後の手取り額 ※このうち寮費は11,000円(水道・光熱費・Wi-Fi含む) 支出(平均 35,000円~40,000円) 食費 30,000円 ※自炊 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨、医薬品など ※ 差額・貯金(平均100,000円) 過酷な労働と残業代不払い 残業代が計上されなかった給与明細。「当時を思い出すと、今でも悔しい」。 私は現在、二つ目の実習先で働いていますが、最初の職場ではつらい目にあいました。それは奈良県の縫製工場で、私の手取り給料は88,000円(約18,700,000ドン)しかありませんでした。毎日17:00に定時の仕事が終わり、その後2、3時間(長いときは5時間)残業をしましたが、残業代をもらえませんでした。社長の理屈は「本来は200枚を8時間以内に縫わなければならない。200枚縫い終わるまでは残業にカウントしない」というものでした。 しかし、例えば男性用セーターを1人で縫う場合、そで、肩、わき、えりなどを縫い分けると、頑張っても1枚5分かかります。100枚で500分。これだけでも定時には終わりません。3時間残業しても1日150枚が精一杯ですし、息つく暇もなく縫うので、毎日くたくたでした。送出機関から「社長はいい人で、手取り170,000円」と説明されて応募しましたが、事実は全く違いました。 「もう会社に来なくてもよい」 当時の実習先〈2019年〉 この会社で働き始めて間もなく、近所のベトナム人実習生と知り合い、私の職場で技能実習を終えて帰国した先輩2人をSNSで紹介してくれました。先輩たちに聞くと、「残業代はゼロではなかったが、本来の額より少なかった」とのことでした。先輩たちもかわいそうでしたが、私たちはさらにひどい条件です。しかし、日本語ができないので社長に抗議もできず、悔しい思いで仕事を続けていたある日、社長から思わぬことを言われました。 私は社長から突然、「1日200枚縫えないならベトナムに帰ってください。あなたはもう会社に来なくてもいいです」と言われました。技能実習を始めて約3カ月で、まだ借金がたくさん残っていました。私はショックでぼうぜんとしました。その後、私から相談を受けた監理団体(組合)の通訳が社長と話をし、私は「1日200枚縫えない場合は、給料は受け取らない」という趣旨の誓約書(ベトナム語)を書かされて仕事に復帰しました。実習生3人のうち「会社に来なくていい」と言われたのは私だけでした。 絶望の帰国通告 送出機関社長に書かされた文書〈2019年9月〉 そして、事態はさらに悪化します。9月に送出機関の社長がハノイからやって来ました。少し前に発生した不良品が原因のようでした。社長の指示通りの針で縫ったところ、針の大きさが間違っており、100枚返品されたのです。送出機関の若い女性社長は私たち実習生3人と会社で話をし、その後、私だけを寮に連れて行きました。寮に着くなり社長は「会社はあなたをいらないと言っている。一緒に帰国しよう」と切り出しました。私は声を出して泣きました。これまでの経緯を説明し、一生懸命働いたのになぜ自分だけ帰されるのかと抗議しましたが、社長からは慰めの言葉もありませんでした。 それどころか、社長は「自分の希望でベトナムに帰国する」という文書を書くように私に言いました。それを書けば、未払いの3カ月分の給料を支払うとのことです。私は指示されるまま次のような趣旨の文書を書きました。「私は会社でいろいろな問題を起こし、不良品もよく出しました。現在、会社は私を不要としています。私は帰国しますので、6~8月分の給料を支払ってください」。社長は「ベトナムに帰国し、1、2カ月待てばまた新しい仕事が見つかって日本に戻れる」と言いましたが、信用できません。また、このように書かされましたが、実際は私の責任で不良品を出したことはありませんでした。 「外国人実習生支援」にSOS 榑松さんがOTITに送ってくれた申告書の一部〈2019年9月〉 私は文書を書いて職場に戻りましたが、昼休みになっても昼食がのどを通りませんでした。終業後も送出機関社長に公園に連れて行かれ、「ベトナムに戻って少し待てば、新しい仕事が見つかる」と午前と同じことを言われました。しかし、本当に新しい実習先を紹介してもらえる保証はありませんし、追加料金を要求される可能性もあります。私は「私は大きな借金をして日本に来たし、仕事もしっかりやっている。監理団体がほかの仕事を見つけるまで日本で待ちたい。帰国はしません」と言い残して寮に帰りました。 その夜、送出機関社長は私の失踪を警戒したのか、ホテルではなく私たち3人の寮に泊まりました。私は寝室である人にSOSメッセージを送りました。送った相手は「外国人実習生支援」という支援団体の榑松(くれまつ)代表で、不当な処遇をされた実習生を何人も助けてきた人です。実は、5月に「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた直後、会社の先輩から榑松さんを紹介され、通訳(ベトナム人留学生のボランティア)も入ってSNSでやり取りを続けていたのです。 私は榑松さんに切迫した状況を伝えました。榑松さんからは「明日、OTITが会社に行く。しかし、もしその前に空港に連れて行かれた場合は、出国審査の入管職員に私の名刺を見せて『本当は帰国したくない』と伝えなさい」と返事があり、榑松さんの名刺の写真を送ってくれました。榑松さんはその直後、OTITにFAXで9枚の申告書と資料を送り、私を助け出すように依頼してくれました。 外国人技能実習機構(OTIT)登場! 翌朝、私はどきどきしながら出勤すると、約2時間後、OTITの担当者 2人が本当に会社に来ました!担当者の1人は縫製会社社長と話し、もう1人(女性)は私を寮に連れて行きました。寮には監理団体理事長も来ました。私はOTITから電話通訳を介して「あなたは無理に帰国させられるかも知れないので、私たちがあなたを保護します。あなたは今日からホテルに住み、私たちがほかの勤務先を探します」と説明されました。私は荷造りをし、OTITの車で大阪市内のホテルに移されました。 ホテルに行く前に会社に戻り、会社から未払いの3カ月分の給料を受け取りました。社長は深刻な顔をしていました。OTITの担当者は4人に増え、そのうち2人が監理団体理事長と話をしていました。理事長も深刻な表情でした。私は社長に「短い間でしたが、どうもありがとうございました。お元気で」とあいさつしましたが、社長は無言でした。その後、この会社の技能実習計画は取り消され、ほかの2人の実習生も別の職場に移されました。 新職場は別世界 左:寮の自分のベッド。毎晩、ここから娘に電話する; 右:寮の台所 約2カ月半後、私はOTITや榑松さんたちのおかげで岩手県の「ケーエスファクトリー」に移籍しました。同社は約20名の職場で、有名ブランドの婦人服の縫製を行っており、ベトナム人女性5人が技能実習をしています。監理団体は東京の「ワールドパワー協同組合」で、担当のベトナム人通訳が頻繁に来て、私たちの状況を聞いてくれます。 新型コロナがなければ、夏には社長が実習生たちに浴衣を買い与えて地元の夏祭りに連れて行ったり、春には車で花見に連れて行ってくれたりするそうです。今の職場は前の職場と環境も給料もまったく違います。私を助けてくれた「外国人実習生支援」やOTIT、そして今の社長にとても感謝しています。 【編集部からのアドバイス】 ❶ ヒエンさんの転籍先を紹介した監理団体は技能実習生を紹介する際、その会社が▽法律通り残業代を支払う▽技能実習日誌や管理簿をきちんとつける▽平均的な寮生活を提供する――などを条件としています。この組合の紹介先で技能実習をしたい場合は、問い合わせてみてください。 (監理団体)ワールドパワー協同組合 world-power@helen.ocn.ne.jp ※メール(ベトナム語)で問い合わせができます。翻訳に少し時間がかかります。 ❷ 強制帰国は違法 技能実習生の意に反して計画途中で帰国させることは違法です。実習生が技能実習の継続を希望している場合、受入会社や監理団体は責任を持って次の実習先を確保しなければなりません(法的義務)。 ❸ 実習先での問題はまず所属する監理団体に相談し、それで解決しない場合は、必ず外国人技能実習機構(OTIT)に相談してください。ベトナム語で電話(0120-250-168)で相談できますが、相談内容が深刻な場合は、紙に書いてOTITを訪問するか郵送する方が効果的です。 ❹ 万一、OTITに相談しても解決しない場合は、下記のような民間の支援団体もあります。 外国人実習生支援(Facebook) 日越ともいき支援会 会社の近くの桜〈岩手県で2020年〉 寮では勉強机も広々〈岩手県で2020年〉 今回の先輩 (トー・ティ・ヒエン)さん 2000年 高校中退、家業手伝い〈タイビン〉 2001年 靴製造会社で勤務〈ハイフォン〉 2007年 長女出産、縫製工場勤務〈タイビン〉 2018年 送出機関登録 2019年 2月:訪日→講習→技能実習〈奈良〉 2019年 9月:OTITによって保護 2019年 12月:新しい職場で技能実習開始〈岩手〉 〈1984年生まれ、タイビン省出身〉 社長から「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた技能実習生ヒエンさん。送出機関社長もやってきて「あなたをベトナムに連れて帰る」と迫られたが、強制帰国寸前でOTIT(外国人技能実習機構)が出動!ヒエンさんは救出され、転職先も紹介してもらえることに。 〈このページの内容〉 • 娘の学費を稼ぐために日本へ • 訪日前の借金とその後の返済 • 過酷な労働と残業代不払い • 「もう会社に来なくてもよい」 • 絶望の帰国通告 • 「外国人実習生支援」にSOS • 外国人技能実習機構(OTIT)登場! • 新職場は別世界 娘の学費を稼ぐために日本へ 私は、家が貧しかったので、高校2年の初めに学校を中退して母を手伝い、翌年からハイフォンの靴製造会社で働きました。当時は高校に行く人が少なく、私の周りでは半分もいませんでした。2006年に職場の地元の男性と結婚して妊娠し、退職しましたが、半年で離婚し、2007年1月に女児を出産しました。その9カ月後、縫製工場で仕事を始めました。娘は現在、中学3年生で、私の両親と一緒に暮らしています。娘の成績がよいので、私は娘の今後の学費を稼ぐために技能実習を志望しました。 私の今の実習先〈2020年〉 訪日前の借金とその後の返済 私は友人に紹介してもらったハノイの送出機関に登録し、支払いのために銀行から160,000,000ドン(約756,000円)を借りました。また、父の肺がんの治療のために、それとは別に140,000,000ドンを借りました。日本に来てから最初の職場で6カ月、今の職場で15カ月働き、借金はほぼ全額返済できました。今後は、技能実習の残り期間で娘の将来の学費をなるべく貯めたいです。また、3年間の実習が終わったら、技能実習3号として今の職場に戻りたいと希望しています。 前の職場では残業代をもらえず、毎月6、7万円しか実家に送金できませんでしたが、今の職場では毎月10万円送っています。父は病気、母も高齢です。自分たちの田畑を人に貸しているので、米や野菜は無料ですが、現金がないので、私の仕送りで3人の生活費と娘の学費をまかなっています。 今の職場での仕事〈岩手県で2020年〉 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※100円=21,240 VND(2021年3月11日現在) 手取り給料(平均140,000円) 手取り給料 137,000円~142,000円 ※税金、社会保険料、寮費を引いた後の手取り額 ※このうち寮費は11,000円(水道・光熱費・Wi-Fi含む) 支出(平均 35,000円~40,000円) 食費 30,000円 ※自炊 雑費 5,000円~10,000円 ※生活雑貨、医薬品など ※ 差額・貯金(平均100,000円) 過酷な労働と残業代不払い 私は現在、二つ目の実習先で働いていますが、最初の職場ではつらい目にあいました。それは奈良県の縫製工場で、私の手取り給料は88,000円(約18,700,000ドン)しかありませんでした。毎日17:00に定時の仕事が終わり、その後2、3時間(長いときは5時間)残業をしましたが、残業代をもらえませんでした。私は社長から突然、「1日200枚縫えないならベトナムに帰ってください。あなたはもう会社に来なくてもいいです」と言われました。技能実習を始めて約3カ月で、まだ借金がたくさん残っていました。私はショックでぼうぜんとしました。社長の理屈は「本来は200枚を8時間以内に縫わなければならない。200枚縫い終わるまでは残業にカウントしない」というものでした。 しかし、例えば男性用セーターを1人で縫う場合、そで、肩、わき、えりなどを縫い分けると、頑張っても1枚5分かかります。100枚で500分。これだけでも定時には終わりません。3時間残業しても1日150枚が精一杯ですし、息つく暇もなく縫うので、毎日くたくたでした。送出機関から「社長はいい人で、手取り170,000円」と説明されて応募しましたが、事実は全く違いました。 残業代が計上されなかった給与明細。「当時を思い出すと、今でも悔しい」。 「もう会社に来なくてもよい」 この会社で働き始めて間もなく、近所のベトナム人実習生と知り合い、私の職場で技能実習を終えて帰国した先輩2人をSNSで紹介してくれました。先輩たちに聞くと、「残業代はゼロではなかったが、本来の額より少なかった」とのことでした。先輩たちもかわいそうでしたが、私たちはさらにひどい条件です。しかし、日本語ができないので社長に抗議もできず、悔しい思いで仕事を続けていたある日、社長から思わぬことを言われました。 私は社長から突然、「1日200枚縫えないならベトナムに帰ってください。あなたはもう会社に来なくてもいいです」と言われました。技能実習を始めて約3カ月で、まだ借金がたくさん残っていました。私はショックでぼうぜんとしました。その後、私から相談を受けた監理団体(組合)の通訳が社長と話をし、私は「1日200枚縫えない場合は、給料は受け取らない」という趣旨の誓約書(ベトナム語)を書かされて仕事に復帰しました。実習生3人のうち「会社に来なくていい」と言われたのは私だけでした。 当時の実習先〈2019年〉 絶望の帰国通告 そして、事態はさらに悪化します。9月に送出機関の社長がハノイからやって来ました。少し前に発生した不良品が原因のようでした。社長の指示通りの針で縫ったところ、針の大きさが間違っており、100枚返品されたのです。送出機関の若い女性社長は私たち実習生3人と会社で話をし、その後、私だけを寮に連れて行きました。寮に着くなり社長は「会社はあなたをいらないと言っている。一緒に帰国しよう」と切り出しました。私は声を出して泣きました。これまでの経緯を説明し、一生懸命働いたのになぜ自分だけ帰されるのかと抗議しましたが、社長からは慰めの言葉もありませんでした。 それどころか、社長は「自分の希望でベトナムに帰国する」という文書を書くように私に言いました。それを書けば、未払いの3カ月分の給料を支払うとのことです。私は指示されるまま次のような趣旨の文書を書きました。「私は会社でいろいろな問題を起こし、不良品もよく出しました。現在、会社は私を不要としています。私は帰国しますので、6~8月分の給料を支払ってください」。社長は「ベトナムに帰国し、1、2カ月待てばまた新しい仕事が見つかって日本に戻れる」と言いましたが、信用できません。また、このように書かされましたが、実際は私の責任で不良品を出したことはありませんでした。 送出機関社長に書かされた文書〈2019年9月〉 「外国人実習生支援」にSOS 私は文書を書いて職場に戻りましたが、昼休みになっても昼食がのどを通りませんでした。終業後も送出機関社長に公園に連れて行かれ、「ベトナムに戻って少し待てば、新しい仕事が見つかる」と午前と同じことを言われました。しかし、本当に新しい実習先を紹介してもらえる保証はありませんし、追加料金を要求される可能性もあります。私は「私は大きな借金をして日本に来たし、仕事もしっかりやっている。監理団体がほかの仕事を見つけるまで日本で待ちたい。帰国はしません」と言い残して寮に帰りました。 その夜、送出機関社長は私の失踪を警戒したのか、ホテルではなく私たち3人の寮に泊まりました。私は寝室である人にSOSメッセージを送りました。送った相手は「外国人実習生支援」という支援団体の榑松(くれまつ)代表で、不当な処遇をされた実習生を何人も助けてきた人です。実は、5月に「あなたはもう会社に来なくてもいい」と言われた直後、会社の先輩から榑松さんを紹介され、通訳(ベトナム人留学生のボランティア)も入ってSNSでやり取りを続けていたのです。 私は榑松さんに切迫した状況を伝えました。榑松さんからは「明日、OTITが会社に行く。しかし、もしその前に空港に連れて行かれた場合は、出国審査の入管職員に私の名刺を見せて『本当は帰国したくない』と伝えなさい」と返事があり、榑松さんの名刺の写真を送ってくれました。榑松さんはその直後、OTITにFAXで9枚の申告書と資料を送り、私を助け出すように依頼してくれました。 榑松さんがOTITに送ってくれた申告書の一部〈2019年9月〉 外国人技能実習機構(OTIT)登場! 翌朝、私はどきどきしながら出勤すると、約2時間後、OTITの担当者 2人が本当に会社に来ました!担当者の1人は縫製会社社長と話し、もう1人(女性)は私を寮に連れて行きました。寮には監理団体理事長も来ました。私はOTITから電話通訳を介して「あなたは無理に帰国させられるかも知れないので、私たちがあなたを保護します。あなたは今日からホテルに住み、私たちがほかの勤務先を探します」と説明されました。私は荷造りをし、OTITの車で大阪市内のホテルに移されました。 ホテルに行く前に会社に戻り、会社から未払いの3カ月分の給料を受け取りました。社長は深刻な顔をしていました。OTITの担当者は4人に増え、そのうち2人が監理団体理事長と話をしていました。理事長も深刻な表情でした。私は社長に「短い間でしたが、どうもありがとうございました。お元気で」とあいさつしましたが、社長は無言でした。その後、この会社の技能実習計画は取り消され、ほかの2人の実習生も別の職場に移されました。 新職場は別世界 約2カ月半後、私はOTITや榑松さんたちのおかげで岩手県の「ケーエスファクトリー」に移籍しました。同社は約20名の職場で、有名ブランドの婦人服の縫製を行っており、ベトナム人女性5人が技能実習をしています。監理団体は東京の「ワールドパワー協同組合」で、担当のベトナム人通訳が頻繁に来て、私たちの状況を聞いてくれます。 新型コロナがなければ、夏には社長が実習生たちに浴衣を買い与えて地元の夏祭りに連れて行ったり、春には車で花見に連れて行ってくれたりするそうです。今の職場は前の職場と環境も給料もまったく違います。私を助けてくれた「外国人実習生支援」やOTIT、そして今の社長にとても感謝しています。 左:寮の自分のベッド。毎晩、ここから娘に電話する; 右:寮の台所 【編集部からのアドバイス】 ❶ ヒエンさんの転籍先を紹介した監理団体は技能実習生を紹介する際、その会社が▽法律通り残業代を支払う▽技能実習日誌や管理簿をきちんとつける▽平均的な寮生活を提供する――などを条件としています。この組合の紹介先で技能実習をしたい場合は、問い合わせてみてください。 (監理団体)ワールドパワー協同組合 world-power@helen.ocn.ne.jp ※メール(ベトナム語)で問い合わせができます。翻訳に少し時間がかかります。 ❷ 強制帰国は違法 技能実習生の意に反して計画途中で帰国させることは違法です。実習生が技能実習の継続を希望している場合、受入会社や監理団体は責任を持って次の実習先を確保しなければなりません(法的義務)。 ❸ 実習先での問題はまず所属する監理団体に相談し、それで解決しない場合は、必ず外国人技能実習機構(OTIT)に相談してください。ベトナム語で電話(0120-250-168)で相談できますが、相談内容が深刻な場合は、紙に書いてOTITを訪問するか郵送する方が効果的です。 ❹ 万一、OTITに相談しても解決しない場合は、下記のような民間の支援団体もあります。 外国人実習生支援(Facebook) 日越ともいき支援会 会社の近くの桜〈岩手県で2020年〉 寮では勉強机も広々〈岩手県で2020年〉
2021年03月29日
今回の先輩 グエン・バー・フックさん 2012年 焼肉櫻(さくら)正社員〈ハノイ〉 2012年 短大の調理師学科卒業〈タイグエン県〉 2013年 日本語教室入学〈ハノイ〉 2015年 訪日、日本語学校入学〈北海道〉 2016年 調理師専門学校入学〈北海道〉 2018年 専門学校卒業、ホテル入社〈北海道〉 2020年 新型コロナの影響で料亭への就職取り消し〈東京〉 2020年 寿司店や料亭でアルバイト〈東京〉 〈1992年生まれ、ハノイ近郊のソンタイ市出身〉 p5st.gm@gmail.com ベトナムと日本の両国で調理師資格を取り、日本料理の外国人調理師として最高位の「ゴールド」レベルに認定されたフックさん。短期間で日本語力を高めたノウハウや日本での留学生活を紹介する。 〈このページの内容〉 • ゴールドの日本食調理師に • ベトナムの調理師資格取得 • 本物の日本食との出会い • 留学ビザ不許可 • 日本語学習の工夫 • 2回目の申請で留学許可 • 日本語学校→専門学校 • 就職、転職、新型コロナ • 今後はベトナムで活動 ゴールドの日本食調理師に 「ゴールド」に認定〈2021年〉 日本政府が定めた「海外における日本料理の調理技能認定制度」が2016年に始まりました。日本での調理師経験とコンテストでの成績で認定を受けられます。ゴールド、シルバー、ブロンズの3レベルがあり、ゴールドの外国人は世界で18人だけですが、私は2021年3月、ベトナム人で初めてゴールドに認定されました。また、私は2021年4月に「ベトナム人調理師協会」を設立します。在日ベトナム人調理師が情報交換をしたり、ベトナム料理を普及したり、調理師を目指すベトナム人留学生のサポートをしたりするグループを目指しています。それでは、私の留学生活について紹介します。 ベトナムの調理師資格取得 短大での実習と当時の私の料理 私の実家では主に父が料理を作っていたので、私も中学生のころから手伝うようになりました。その後、志望大学の受験に失敗したとき、父から「得意な料理を勉強してはどうか」と助言されました。よく考えた末、調理師コースのある短期大学に進み、ベトナムの調理師資格を取りました。 短大在学中はハノイの「焼肉櫻(さくら)」で働きました。最初は洗い場や清掃だけでしたが、少しずつ調理の下準備や盛り付けもさせてもらえるようになりました。短大卒業の4カ月前に正社員になり、やがて鍋やスープの調理も担当しました。正社員になってからは2年間勤務しました。 本物の日本食との出会い 和食が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録され、和食の特集番組がたくさん放送されました。「和食」とは日本の伝統料理で、「日本食」は外国の料理をアレンジしたものも含みます。私はテレビ番組をきっかけに和食の魅力について調べ、和食や日本食への興味が深まっていきました。 そんなある日、ハノイの日系ホテルで日本食のイベントがあり、参加しました。そこで出された日本食は、私がそれまでに経験した料理とは味も盛り付けも全く違い、衝撃を受けました。私は本物の日本食を作れるようになりたいと思い、日本留学を考えました。先に日本に留学した「櫻」の先輩の影響もありました。私は当時、安定した収入を得ていたので、家族は留学に反対しましたが、最後は両親がお金を出してくれました。 留学ビザ不許可 私が学んだ日本語教室の仲間と先生〈ハノイで2013年〉 私は「櫻」を退職して留学準備を始めました。留学あっせん会社の日本語教室に通い、3カ月で日本語能力試験(JLPT)N5に合格しました。同社に支払ったのは約100万円。内訳は日本の日本語学校の入学金と1年間の授業料(約70万円)、日本での半年間の寮費(12万円)、在留資格申請の手数料やハノイの日本語教室の授業料などでした。 ところが、在留資格申請が不許可となり、予定していた2014年7月からの留学はできませんでした。私はそれでもあきらめず、日本語をもっと勉強したうえで、半年後に再トライしようと決心しました。アルバイトをしながら勉強を続け、同じ年にN3に合格。その後、別の日本語教室で初級コースの教師をしながら留学準備を続けました。 日本語学習の工夫 リスニングの練習に使ったインターネットラジオ番組 私は2015年4月に留学を始めるまでの1年半、N3を取得したほか、実生活で日本語を使う努力も重ねました。このため、留学先の日本語学校では、最初から2年目の人が受けるコースに入り、1年で卒業できました。卒業までに通常は2年かかるので、1年分の留学費用を節約できました。 留学前は、毎日3時間以上、机の前に座る習慣をつけました。 そして、日本語教室の授業を先取りして勉強したので、授業が復習になりました。自分に便利なように分類した単語や文法のノートも作りました。また、「みんなの日本語」以外に「新完全マスター」シリーズも使いました。 ◇私が日本語を学ぶ際に工夫したこと◇ ■インターネットラジオのニュース 毎晩20分、インターネットラジオの日本語ニュースを聴きました。音声のスピードを調整できます。最初はまったく聞き取れませんでしたが、半年後に少し聞き取れるようになりました。これは日本に行ってからも続けました。 ■日本人の友人をつくる 勤務先での同僚の日本人留学生に日本語会話の練習相手になってもらいました。また、その人の紹介で他の日本人留学生とも知り合い、日本語で交流しました。 ■聴いた日本語をまねる 日本人の日本語を聞き、聞き取れた言葉をまねました。「お疲れさまです」「ありがとうございました」など簡単な言葉から始めました。 ■覚えた言葉を使う(アルバイト) N3取得後に3カ月間、日本人客の多いホテルでもアルバイトをしました。フロントやレストランで接客をしたり、客同士の会話に耳を傾けたり、日本人客に話しかけたりしました。 ■覚えた言葉を使う(人に教える) N3取得後に7カ月間、日本語教室で教師をしました。教えることで自分の復習にもなりました。 ■日本語の簡単な歌を覚える 「大きな古時計」などを日本語で覚え、くり返し歌いました。 ■携帯電話の言語を日本語に(訪日後) 訪日後はなるべく日本語だけの環境にするように努力しました。例えば、携帯電話の使用言語も日本語に変えました。何度かベトナム語に戻そうとしましたが、携帯電話画面の日本語が難しいので戻せませんでした。携帯電話を使うたびに日本語の勉強になりました。 「櫻」での仕事(奥が私) 日本語教室のスタッフ仲間。教えることで自分も復習。 2回目の申請で留学許可 北海道函館市で過ごした日々 留学の在留資格を最初に申請した際は東京の日本語学校に行くことにしていましたが、2回目の申請では北海道にしました。1度不許可になった人への審査は厳しいと聞き、東京より留学希望者が少なく審査に通りやすいと聞いた地域の中から選んだのです。また、最初の申請では姉の銀行口座の記録を提出しましたが、姉が若いので信用されなかったのかも知れないと思い、2回目は祖父の口座記録を提出しました。こうして、今度は在留許可が出ました。 訪日後はすぐにアルバイトを探しました。自転車で和食店を探し、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話をかけました。日本語を少し話せたこともあり、5件目で採用されました。また、ウェブサイトで別の求人も見つけ、採用されました。1店には半年間、もう1店には1年間勤務し、たくさんの日本料理に接しました。 ベトナム人仲間とも仲良くしてもらいましたが、日本語力を高めるため、アルバイト先の日本人たちとの交流を心がけました。 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※日本語学校1年目の家計簿 ※100円=21,167 VND(2021年3月9日現在) vol55_img12_17_3_2021 収入(合計 約90,000円) アルバイト2件(和食店) 90,000円 支出(合計 約68,000円) 家賃(寮) 25,000円 ※一人暮らし(ワンルーム) 水道・光熱費 3,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話 5,000円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※主に自炊 雑費 15,000円 ※生活雑貨、食事会など 差額・貯金(平均 約22,000円) ※これ以外に授業料650,000円(1年分)は両親が負担 ※夏休みのアルバイトは1カ月120,000円ぐらい 日本語学校→専門学校 調理師学校の新年カードで私たちが紹介されました 私は留学後、大きな問題に直面しました。それは、調理師専門学校の学費が高いことでした。私が調べたところ、一番安い学校で1年間の学費が140万円で、ここに諸費用(包丁や食材など)約25万円が加わります。このため、調理師以外の専門学校や大学も検討しました。そんなときに休暇で帰国し、留学あっせん会社代表に相談すると、北海道室蘭市の調理師学校が留学生受け入れを始めるにあたり、学費無料の特待生も募集すると教えてくれました。ちょうど同校の担当者が出張でハノイに来ており、代表は私を彼に会わせてくれました。 私は特待生の試験を受けて合格し、室蘭市の北斗文化学園インターナショナル調理技術専門学校に入学しました。同校で日本人と同じ授業を受ける初の留学生で 特待生として2年間の学費が免除されました(ほかに学費半額免除や無利子奨学金の制度もあります) 同校では、授業の専門用語が難しいうえ、先生の話すスピードも日本語学校の先生より早口でした。授業時間も日本語学校の2倍の90分ありました こうした苦労はありましたが、授業の予習をするなどして乗り切り、卒業前に日本の調理師資格を取得しました。 就職、転職、新型コロナ 北海道のホテルでの仕事 調理師学校の2年間は、地元のホテルで調理スタッフのアルバイトをしました。また、2年生のときに登別グランドホテル(北海道)で2週間実習をしたのをきっかけに総料理長から声をかけていただき、卒業後にこのホテル(和食課)に就職しました。2018年から2年間、ここでさまざまな勉強をさせていただきました。 私は日本で働くのは約5年間と決めていたので、総料理長にも相談し、東京でも働いてみることにしました。そして、2020年に東京の料亭に就職が内定しましたが、障害が起こります。新型コロナの感染拡大で来客が急減したため、内定が取り消されたのです。私は東京の寿司店などでアルバイトをしてしのぎました。 今後はベトナムで活動 東京の料亭で修行。奥は冨澤浩一・総料理長(日本食普及の親善大使の1人)〈2021年〉 その後、東京の別の料亭に就職が決まりましたが、最近、状況が変わりました。ベトナムの伯父が亡くなり、子どもたち(いとこ)をサポートする人が必要になったのです。また、 ベトナムの大手飲食チェーンから私に日本食顧問のポストも提示されました そこで、私は今年半ばに帰国することにしました。今は、就職を予定していた料亭で修行をしています。 帰国したら、日本料理の基本をふまえたベトナム人向けの日本料理を作ります。本来の日本料理のまま出せるものはそのまま出し、ベトナム人向けにアレンジした方がよいものは、ベトナムの食材や調味料も使ってアレンジします。日本料理とベトナム料理の両方を本格的に学んだことやベトナム人の味覚を持っていることが私の強みです。それらを生かした料理を提供していきたいと思います。 北海道のホテルでまぐろの解体〈2019年〉 親友が経営するバインミーシンチャオの特別顧問に〈2020年〉 今回の先輩 Nguyễn Bá Phước(グエン・バー・フック)さん 2012年 焼肉櫻(さくら)正社員〈ハノイ〉 2012年 短大の調理師学科卒業〈タイグエン県〉 2013年 日本語教室入学〈ハノイ〉 2015年 訪日、日本語学校入学〈北海道〉 2016年 調理師専門学校入学〈北海道〉 2018年 専門学校卒業、ホテル入社〈北海道〉 2020年 新型コロナの影響で料亭への就職取り消し〈東京〉 2020年 寿司店や料亭でアルバイト〈東京〉 〈1992年生まれ、ハノイ近郊のソンタイ市出身〉 p5st.gm@gmail.com ベトナムと日本の両国で調理師資格を取り、日本料理の外国人調理師として最高位の「ゴールド」レベルに認定されたフックさん。短期間で日本語力を高めたノウハウや日本での留学生活を紹介する。 〈このページの内容〉 • ゴールドの日本食調理師に • ベトナムの調理師資格取得 • 本物の日本食との出会い • 留学ビザ不許可 • 日本語学習の工夫 • 2回目の申請で留学許可 • 日本語学校→専門学校 • 就職、転職、新型コロナ • 今後はベトナムで活動 ゴールドの日本食調理師に 日本政府が定めた「海外における日本料理の調理技能認定制度」が2016年に始まりました。日本での調理師経験とコンテストでの成績で認定を受けられます。ゴールド、シルバー、ブロンズの3レベルがあり、ゴールドの外国人は世界で18人だけですが、私は2021年3月、ベトナム人で初めてゴールドに認定されました。また、私は2021年4月に「ベトナム人調理師協会」を設立します。在日ベトナム人調理師が情報交換をしたり、ベトナム料理を普及したり、調理師を目指すベトナム人留学生のサポートをしたりするグループを目指しています。それでは、私の留学生活について紹介します。 「ゴールド」に認定〈2021年〉 ベトナムの調理師資格取得 私の実家では主に父が料理を作っていたので、私も中学生のころから手伝うようになりました。その後、志望大学の受験に失敗したとき、父から「得意な料理を勉強してはどうか」と助言されました。よく考えた末、調理師コースのある短期大学に進み、ベトナムの調理師資格を取りました。 短大在学中はハノイの「焼肉櫻(さくら)」で働きました。最初は洗い場や清掃だけでしたが、少しずつ調理の下準備や盛り付けもさせてもらえるようになりました。短大卒業の4カ月前に正社員になり、やがて鍋やスープの調理も担当しました。正社員になってからは2年間勤務しました。 短大での実習と当時の私の料理 本物の日本食との出会い 和食が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録され、和食の特集番組がたくさん放送されました。「和食」とは日本の伝統料理で、「日本食」は外国の料理をアレンジしたものも含みます。私はテレビ番組をきっかけに和食の魅力について調べ、和食や日本食への興味が深まっていきました。 そんなある日、ハノイの日系ホテルで日本食のイベントがあり、参加しました。そこで出された日本食は、私がそれまでに経験した料理とは味も盛り付けも全く違い、衝撃を受けました。私は本物の日本食を作れるようになりたいと思い、日本留学を考えました。先に日本に留学した「櫻」の先輩の影響もありました。私は当時、安定した収入を得ていたので、家族は留学に反対しましたが、最後は両親がお金を出してくれました。 留学ビザ不許可 私は「櫻」を退職して留学準備を始めました。留学あっせん会社の日本語教室に通い、3カ月で日本語能力試験(JLPT)N5に合格しました。同社に支払ったのは約100万円。内訳は日本の日本語学校の入学金と1年間の授業料(約70万円)、日本での半年間の寮費(12万円)、在留資格申請の手数料やハノイの日本語教室の授業料などでした。 ところが、在留資格申請が不許可となり、予定していた2014年7月からの留学はできませんでした。私はそれでもあきらめず、日本語をもっと勉強したうえで、半年後に再トライしようと決心しました。アルバイトをしながら勉強を続け、同じ年にN3に合格。その後、別の日本語教室で初級コースの教師をしながら留学準備を続けました。 私が学んだ日本語教室の仲間と先生〈ハノイで2013年〉 日本語学習の工夫 私は2015年4月に留学を始めるまでの1年半、N3を取得したほか、実生活で日本語を使う努力も重ねました。このため、留学先の日本語学校では、最初から2年目の人が受けるコースに入り、1年で卒業できました。卒業までに通常は2年かかるので、1年分の留学費用を節約できました。 留学前は、毎日3時間以上、机の前に座る習慣をつけました。 そして、日本語教室の授業を先取りして勉強したので、授業が復習になりました。自分に便利なように分類した単語や文法のノートも作りました。また、「みんなの日本語」以外に「新完全マスター」シリーズも使いました。 リスニングの練習に使ったインターネットラジオ番組 ◇私が日本語を学ぶ際に工夫したこと◇ ■インターネットラジオのニュース 毎晩20分、インターネットラジオの日本語ニュースを聴きました。音声のスピードを調整できます。最初はまったく聞き取れませんでしたが、半年後に少し聞き取れるようになりました。これは日本に行ってからも続けました。 ■日本人の友人をつくる 勤務先での同僚の日本人留学生に日本語会話の練習相手になってもらいました。また、その人の紹介で他の日本人留学生とも知り合い、日本語で交流しました。 ■聴いた日本語をまねる 日本人の日本語を聞き、聞き取れた言葉をまねました。「お疲れさまです」「ありがとうございました」など簡単な言葉から始めました。 ■覚えた言葉を使う(アルバイト) N3取得後に3カ月間、日本人客の多いホテルでもアルバイトをしました。フロントやレストランで接客をしたり、客同士の会話に耳を傾けたり、日本人客に話しかけたりしました。 ■覚えた言葉を使う(人に教える) N3取得後に7カ月間、日本語教室で教師をしました。教えることで自分の復習にもなりました。 ■日本語の簡単な歌を覚える 「大きな古時計」などを日本語で覚え、くり返し歌いました。 ■携帯電話の言語を日本語に(訪日後) 訪日後は北海道函館市で過ごした日々なるべく日本語だけの環境にするように努力しました。例えば、携帯電話の使用言語も日本語に変えました。何度かベトナム語に戻そうとしましたが、携帯電話画面の日本語が難しいので戻せませんでした。携帯電話を使うたびに日本語の勉強になりました。 「櫻」での仕事(奥が私) 日本語教室のスタッフ仲間。教えることで自分も復習。 2回目の申請で留学許可 留学の在留資格を最初に申請した際は東京の日本語学校に行くことにしていましたが、2回目の申請では北海道にしました。1度不許可になった人への審査は厳しいと聞き、東京より留学希望者が少なく審査に通りやすいと聞いた地域の中から選んだのです。また、最初の申請では姉の銀行口座の記録を提出しましたが、姉が若いので信用されなかったのかも知れないと思い、2回目は祖父の口座記録を提出しました。こうして、今度は在留許可が出ました。 訪日後はすぐにアルバイトを探しました。自転車で和食店を探し、アルバイト募集のはり紙を見つけて電話をかけました。日本語を少し話せたこともあり、5件目で採用されました。また、ウェブサイトで別の求人も見つけ、採用されました。1店には半年間、もう1店には1年間勤務し、たくさんの日本料理に接しました。 ベトナム人仲間とも仲良くしてもらいましたが、日本語力を高めるため、アルバイト先の日本人たちとの交流を心がけました。 北海道函館市で過ごした日々 ◇私の家計簿(1カ月の平均) ※日本語学校1年目の家計簿 ※100円=21,167 VND(2021年3月9日現在) 収入(合計 約90,000円) アルバイト2件(和食店) 90,000円 支出(合計 約68,000円) 家賃(寮 25,000円 ※一人暮らし(ワンルーム) 水道・光熱費 3,000円 ※水道・電気・ガスの合計 携帯電話 5,000円 ※インターネット+通話 食費 20,000円 ※主に自炊 雑費 15,000円 ※生活雑貨、食事会など 差額・貯金(平均 約22,000円) ※これ以外に授業料650,000円(1年分)は両親が負担 ※夏休みのアルバイトは1カ月120,000円ぐらい 日本語学校→専門学校 私は留学後、大きな問題に直面しました。それは、調理師専門学校の学費が高いことでした。私が調べたところ、一番安い学校で1年間の学費が140万円で、ここに諸費用(包丁や食材など)約25万円が加わります。このため、調理師以外の専門学校や大学も検討しました。そんなときに休暇で帰国し、留学あっせん会社代表に相談すると、北海道室蘭市の調理師学校が留学生受け入れを始めるにあたり、学費無料の特待生も募集すると教えてくれました。ちょうど同校の担当者が出張でハノイに来ており、代表は私を彼に会わせてくれました。 私は特待生の試験を受けて合格し、室蘭市の北斗文化学園インターナショナル調理技術専門学校に入学しました。同校で日本人と同じ授業を受ける初の留学生で 特待生として2年間の学費が免除されました(ほかに学費半額免除や無利子奨学金の制度もあります) 同校では、授業の専門用語が難しいうえ、先生の話すスピードも日本語学校の先生より早口でした。授業時間も日本語学校の2倍の90分ありました こうした苦労はありましたが、授業の予習をするなどして乗り切り、卒業前に日本の調理師資格を取得しました。 調理師学校の新年カードで私たちが紹介されました 就職、転職、新型コロナ 調理師学校の2年間は、地元のホテルで調理スタッフのアルバイトをしました。また、2年生のときに登別グランドホテル(北海道)で2週間実習をしたのをきっかけに総料理長から声をかけていただき、卒業後にこのホテル(和食課)に就職しました。2018年から2年間、ここでさまざまな勉強をさせていただきました。 私は日本で働くのは約5年間と決めていたので、総料理長にも相談し、東京でも働いてみることにしました。そして、2020年に東京の料亭に就職が内定しましたが、障害が起こります。新型コロナの感染拡大で来客が急減したため、内定が取り消されたのです。私は東京の寿司店などでアルバイトをしてしのぎました。 北海道のホテルでの仕事 今後はベトナムで活動 その後、東京の別の料亭に就職が決まりましたが、最近、状況が変わりました。ベトナムの伯父が亡くなり、子どもたち(いとこ)をサポートする人が必要になったのです。また、 ベトナムの大手飲食チェーンから私に日本食顧問のポストも提示されました そこで、私は今年半ばに帰国することにしました。今は、就職を予定していた料亭で修行をしています。 帰国したら、日本料理の基本をふまえたベトナム人向けの日本料理を作ります。本来の日本料理のまま出せるものはそのまま出し、ベトナム人向けにアレンジした方がよいものは、ベトナムの食材や調味料も使ってアレンジします。日本料理とベトナム料理の両方を本格的に学んだことやベトナム人の味覚を持っていることが私の強みです。それらを生かした料理を提供していきたいと思います。 東京の料亭で修行。奥は冨澤浩一・総料理長(日本食普及の親善大使の1人)〈2021年〉 北海道のホテルでまぐろの解体〈2019年〉 親友が経営するバインミーシンチャオの特別顧問に〈2020年〉
2021年03月26日
最近、新型コロナウイルスの感染が日本でも急激に増えています。例年、感染が拡大する本格的な冬の到来を前に、新型コロナへの感染を避けるための基本的な対策や注意点をまとめました。 いマスク、手洗、消毒、うがい 最も基本的な対策はマスクの着用です。スーパーコンピューター「富岳」で、せきをした際の飛沫(ひまつ)の拡散を解析すると、不織布マスクでも布マスクでも飛沫の8割を抑えられることが分かりました。一方、同じく「富岳」による解析で、フェイスシールドの場合は、小さな飛沫がすき間から大量に漏れ出すことが分かっています。手洗いと消毒とうがいも大切です。 マスクの表面を触らない マスクを外したり動かしたりする際は、マスクの表面を触らず、耳かけのひもを持って行ってください。また、マスクを外した後は手を洗いましょう。 ウイルス・菌対策研究所のHPより ウイルス・菌対策研究所のHPより リスクの高い5つの場面 新型コロナの感染対策を厚労省に助言する専門家組織「アドバイザリーボード」は感染リスクが高まる「5つの場面」を挙げています。 ① 狭い空間での共同生活 ② 居場所の切り替わり ③ 飲酒を伴う懇親会など ④ 大人数や長時間に及ぶ飲食 ⑤ マスクなしでの会話 ① 例えば留学生や技能実習生の寮がそれに当たります。寮の部屋やトイレなど複数の人が使う場所で感染したと思われる事例があります。 ② 職場の休憩室や喫煙所、更衣室での感染が疑われる事例があります。 ③ 酒に酔ったり、仲間が多かったりすると、声が大きくなって飛沫がたくさん飛びます。 会食時に気をつけたい5つのこと お酒を飲んだり、仲間が多かったりすると、声が大きくなって飛沫(ひまつ)がたくさん飛びます。そして、1次会、2次会と長時間になるほどリスクが高まります。そこで、東京都は下記のようなことを提案しています。 ① 「小人数」での会食 ② 「小一時間(約1時間)」など短めの時間を決めて会食をする ③ 「小声」で会食を楽しむ ④ 「小皿」で料理を取り分ける ⑤ 「小まめに」手洗い、消毒、マスク、換気をする 国立国際医療研究センターの幹部は「人と人とが密に接触し、マスクを外して長時間にわたって飲食をすることや、店を何軒もはしごして飲酒したり、大声で話したりするといった行為は、感染リスクが高い」と指摘しています。 「食前・食後のマスク着用」を依頼する飲食店の呼びかけ文
2020年11月25日
今回の先輩 ズンさん=仮名 2018年高校卒業〈ドンナイ省〉 2019年送出機関に登録〈ホーチミン〉 2020年訪日(2月)→入国後講習 2020年建築の技能実習〈富山県、神奈川県〉 2020年不法就労(7~10月)〈長野県) 2020年日越ともいき支援会で保護〈東京〉 2021年介護のアルバイト〈東京〉 〈1998年生まれ、ドンナイ省出身〉 ズンさん(仮名)は技能実習中に失踪し、農家で不法就労をしたが、この仕事を紹介した会社が警察に摘発された。失踪生活で心身ともに疲れ、「失踪せず、支援機関に相談すればよかった」と後悔する。 〈このページの内容〉 • 家業倒産で多額の借金 • 紹介少なく、不人気業種に応募 • 3カ月で労働内容変更 • 不平等な重労働 • ウーバーイーツ詐欺 • 不法就労へのプロセス • 不法就労の実態 • 失職 • 失踪の結末 家業倒産で多額の借金 私が通った送出機関の日本語センターで旧正月を祝うイベント 私の父はアンザン省で稲作と小型船エンジンの販売をしていましたが、私が高校生のときにエンジン販売業が倒産し、約7億ドン(約320万円)の負債ができました。両親は自宅と水田を売って一部を返済し、知人から紹介された家具工場で働くためにドンナイ省に移りました。私と兄は近所の祖父母のもとに残り、両親の生活が落ち着いてから合流しました。 高校2年の途中でドンナイ省に移り、3カ月間は両親と一緒に働き、翌年度に高2をもう一度やり直しました。転校前の成績はクラスの上位3分の1に入っていましたが、多額の借金があるので、進学をあきらめました。そのころ、高校に送出機関が来て技能実習の説明をしました。「日本に行けば、ベトナムでは考えられない額の給料をもらえ、技術も学べる」という説明でした。 紹介少なく、不人気業種に応募 不合格になった最初の採用面接〈ホーチミン市で2019年6月〉 私は技能実習生になろうと思い、どの送出機関に依頼すべきかネットで調べました。「信用できる送出機関ランキング(Top công ty xuất khẩu lao động nhật bản uy tín)」などのキーワードで検索し、約10社をリストアップしました。これらの会社に電話などで問い合わせ、条件や対応のよかった2社を訪問して1社を選びました。同社の担当者は「手取り給料は30,000,000ドン(約138,000円)を超える」と説明しました。 私はこの会社に2019年2月に登録しましたが、リサーチ不足だったことが後で分かりました。人気職種の求人紹介が少なかったのです。たまに良い求人があっても、他の送出機関からの紹介で、採用された場合に20,000,000ドンの追加料金がかかります。このため、6月にやっと最初の面接を受け(不合格)、7月に2回目の面接で合格しました。不人気の建設業でしたが、焦りもあって仕方なく応募したのです。 3カ月で労働内容変更 短かった富山での生活〈2020年3月〉 私は2020年2月に訪日し、3月から富山県で技能実習を始めました。手取り給料は約104,000円(約22,666,000ドン)でした。工場で機械を使って鉄筋を折り曲げ、針金で束ねてから運ぶ仕事でした。 当初の契約書では、1年間はこの作業で、2年目から建築現場で働くことになっていました。しかし、実際には、3カ月で神奈川県に転勤させられて新しい契約書に署名させられ、東京・新宿の超高層ビル建築現場にかり出されました。手取り給料は約135,000円に増えましたが、仕事が過酷なうえ、職場環境にも問題がありました。 不平等な重労働 新宿の超高層ビル建築現場〈2020年6月〉 ここでの仕事は8:00~17:00ですが、家を出るのは5:30、帰宅は19:30でした。いくつかの会社から役割の違うチームが集まり、私たちの会社からは10~20人(半分以上がベトナム人)が出向いていました。私たちの役割は鉄筋を組み立てるための準備ですが、同じチームの若い日本人3人が楽な仕事を取り、私たち実習生は鉄筋運びが中心でした。鉄筋を肩に担いで数十㍍運びます。1人で20㌔以上、2人で約50㌔の鉄筋を運ぶこともあります。鉄筋運びばかりを1日中させられることもあり、歩けなくなるぐらいけなくなるぐらい疲れました。現場責任者が状況を把握しておらず、仕事の割り振りが不平等だったのです。 また、若い日本人3人は休憩時間などに私たちの悪口を言いふらしていました。先輩実習生によると、「仕事のできが悪い」「帰国すればいい」などと言っていたそうです。関係を良くしようと、私たちが休憩時間に飲み物を渡しても、彼らには無視されてしまいました。 ウーバーイーツ詐欺 新大久保駅周辺〈資料写真〉 こうした日々が続き、私は失踪を考え始めました。仕事の過酷さや職場の人間関係も原因ですが、期待していた給料より低かったことが最大の要因でした。このままでは実家の借金をなかなか返せないと思ったのです。手取り給料がせめて150,000円あれば、思いとどまっていたかも知れません。 神奈川に転勤して1カ月後の7月4日(給料日の翌日)、同期のタム君(仮名)と私は失踪しました。そのころ、送出機関の同期で他社から先に失踪していたチェン君(仮名)が東京でウーバーイーツの仕事をしていました。ベトナムのグラブイーツと同じ仕事です。私たちは電車で東京のJR新大久保駅に行き、チェン君を訪ねました。彼は2段ベッドが3台置かれた狭い部屋に住んでいました。部屋の借主の留学生とチェン君ら失踪者3人がおり、私たちもここに1人1万円で2週間住ませてもらいました。 ウーバーイーツ配達員〈資料写真〉 ウーバーイーツの仕事をするにはアカウントを作らなければなりませんが、技能実習生は登録できませできません。そこで、アカウントのヤミ取引が行われています。私たちはチェン君の紹介で自称留学生のベトナム人2人に10万円ずつ払ってアカウントを購入しました。しかし、翌日にはログインできなくなり、彼らと連絡が取れなくなりました。私は売った男のSNS記録から彼の知人を探して男の住所を聞き出し、訪ねて行ってまず5万円を回収しました。ただ、相手はすぐに転居し、残額は回収できませんでした。 不法就労へのプロセス 不法就労現場の畑〈長野県川上村で2020年〉 そこで、私とタム君はFacebookページ“Tokyo Baito”で求人情報を探したり、失踪経験者などに問い合わせたりしました。私たちが使った送出機関の日本語教師(元実習生)2人にも問い合わせると、1人が日本に住む友人をSNSで紹介してくれました。その人からは、太陽光パネルや農業、解体の仕事があると連絡を受けましたが、勤務開始まで2週間かかるとのことだったので遠慮しました。 数日後、Tokyo Baitoで「長野県で農業の仕事。すぐに働ける」という趣旨の投稿を見つけました。私はSNSでたまたまつながっていた失踪実習生に「このバイトは信用できますか?」と尋ねました。彼は「大丈夫だ。この仕事のあっせん業者を紹介する」と言い、トゥンという人物をSNSで紹介してくれました。私とタム君はトゥン氏にメッセージを送り、先に返事をもらったタム君が翌日、長野県に行って農家を紹介されました。私にも1日遅れてトゥン氏から返信があり、偽造在留カードを作るためにパスポートと在留カードの写真を送信するよう指示されました。偽造費用の1万円を送金する際には、他人のキャッシュカードを使いました。私がネットでやり取りして違法に入手したカードでした。 偽造在留カードの費用を振り込むために使った他人のキャッシュカード 7月14日、新幹線で長野県の佐久平駅に着くと、トゥン氏が待っていました。彼が運転する車で約1時間かけて長野県川上村に向かう途中、ホアンという人物も乗車しました。偽造在留カードはまだできておらず、ホアン氏の指示で農家の主人に本物を見せたのですが、主人は承諾しました。 主人は不法就労と知りながら私を雇ったことになります。私はホアン氏に2万円を払い、その日からここに住みました。寮は倉庫の2階でした。 不法就労の実態 午後は草むしりや施肥など〈長野県川上村で2020年〉 農家の仕事はハードでした。朝1時半に起きて、2時から11時半まで働きます。その間、休憩はわずか10分。その後、2時間の昼休みをはさんで13時半から16時半まで働きます。終業後は夕食とシャワーだけ済ませ、19時までに就寝します。未明の仕事では、ヘッドランプで照らしながらレタスの根元を包丁で切って収穫し、サイズを分けて箱詰めした後、トラックに載せます。午後は苗の植え付けや施肥、草むしりなどをします。 作業をするのは日本人3人とベトナム人3人です。川上村と隣の南牧村では約1,500戸の農家が外国人労働者を必要としていますが、新型コロナの影響で外国人の入国が止まり、ホアン氏らの不法就労あっせんに頼る農家が続出していたようです。 失職 ホアンアン社から送られてきたSNSメッセージ 当時はレタス出荷の最盛期で、9月末まで休日なしでしたが、手取り給料は7月(15日間):約15万円(約32,690,000ドン)▽8月:約24万円▽9月:約23万円――あったので、助かりました。ただ、10月には仕事が減り、約15万円になりました。給料はホアン氏らの会社の人が毎月車でやって来て現金で渡してくれました。毎月の出費は4万円くらいで、実家にたくさん送金できました。ただ、冬は給料が減るので、そろそろほかの仕事を探さなければと思っていた矢先、突然解雇されることになりました。 10月13日、会社からSNSで連絡が来ました。「警察に調べられている。ベトナム人労働者との契約を終える方向だ」という趣旨でした。20日、ベトナム人不法就労者100人以上が村の農協に集められ、大阪から来た日本人やホアン氏らから「ホアンアン合同会社に警察の捜査が入ったので、皆さんとの契約を終える。皆さん逃げてください」と通告されました。私は自分がホアンアンの派遣社員だったことを初めて知りました。27日、主人に駅まで車で送ってもらい、東京に戻りました。東京では、知人から紹介されたNPO法人に保護してもらいました。 【編集部からの説明】 「ホアンアン合同会社」は大阪市内の会社で、2020年10月、代表社員の女性やダン・ヴ・ホアン業務執行役員が、無許可で労働者を供給したとして職業安定法違反容疑で逮捕され、その後、起訴されました。 失踪の結末 ◆ わが家の借金と返済の状況 借金 返済 借金残額 1 倒産 700,000,000 đ 700,000,000 đ 2 家と水田売却 250,000,000 đ 450,000,000 đ 3 両親の工場勤務 150,000,000 đ 300,000,000 đ 4 私の訪日費用 190,000,000 đ 490,000,000 đ 5 家財売却 30,000,000 đ 460,000,000 đ 6 親せきの援助 130,000,000 đ 330,000,000 đ 7 私からの送金 150,000,000 đ 180,000,000 đ ※100,000,000₫ =約458,400円(2021年2月22日現在) 失踪して半月後、ビデオ通話中に私の部屋が以前と違うことに気付いた母に追及され、「失踪して農業をしている」と白状しました。母はとても心配しました。 また、富山県の3カ月で計21万円、長野県の4カ月で計50万円を両親に送りましたが、失職後の2カ月間半は無収入でした。失踪すると雇用が安定せず、無職の時期もできるので、失踪せず地道に働き続ける方が、結局はたくさん送金できるようです。 日越ともいき支援会で〈2020年10月〉 私は今では、失踪したことを後悔しています。不法就労は精神的にも疲れました。しかも、農家の仕事は工事現場の仕事と同じぐらいきつかったうえ、夜間や休日の割り増し賃金が支払われませんでした。それなのに、不法就労なのでどこにも相談できませんでした。今なら、技能実習先で困難があれば、まず監理団体に相談します。それでだめなら外国人技能実習機構(OTIT)や民間の支援機関に相談します。 私はNPO法人日越ともいき支援会の支援で2021年1月から介護のアルバイトをしています。今の手取りは11万~13万円ですが、試験に受かって特定技能外国人になれれば、給料が上がり長期間働けます。地道に働いて借金を返し、将来のために貯金もしたいと思います。 今回の先輩 Dung(ズン)さん=仮名 2018年 高校卒業〈ドンナイ省〉 2019年 送出機関に登録〈ホーチミン〉 2020年 訪日(2月)→入国後講習 2020年 建築の技能実習〈富山、神奈川〉 2020年 不法就労(7~10月)〈長野) 2020年 日越ともいき支援会で保護〈東京〉 2021年 介護のアルバイト〈東京〉 〈1998年生まれ、ドンナイ省出身〉 ズンさん(仮名)は技能実習中に失踪し、農家で不法就労をしたが、この仕事を紹介した会社が警察に摘発された。失踪生活で心身ともに疲れ、「失踪せず、支援機関に相談すればよかった」と後悔する。 〈このページの内容〉 • 家業倒産で多額の借金 • 紹介少なく、不人気業種に応募 • 3カ月で労働内容変更 • 不平等な重労働 • ウーバーイーツ詐欺 • 不法就労へのプロセス • 不法就労の実態 • 失職 • 失踪の結末 家業倒産で多額の借金 私の父はアンザン省で稲作と小型船エンジンの販売をしていましたが、私が高校生のときにエンジン販売業が倒産し、約7億ドン(約320万円)の負債ができました。両親は自宅と水田を売って一部を返済し、知人から紹介された家具工場で働くためにドンナイ省に移りました。私と兄は近所の祖父母のもとに残り、両親の生活が落ち着いてから合流しました。 高校2年の途中でドンナイ省に移り、3カ月間は両親と一緒に働き、翌年度に高2をもう一度やり直しました。転校前の成績はクラスの上位3分の1に入っていましたが、多額の借金があるので、進学をあきらめました。そのころ、高校に送出機関が来て技能実習の説明をしました。「日本に行けば、ベトナムでは考えられない額の給料をもらえ、技術も学べる」という説明でした。 私が通った送出機関の日本語センターで旧正月を祝うイベント 紹介少なく、不人気業種に応募 私は技能実習生になろうと思い、どの送出機関に依頼すべきかネットで調べました。「信用できる送出機関ランキング(Top công ty xuất khẩu lao động nhật bản uy tín)」などのキーワードで検索し、約10社をリストアップしました。これらの会社に電話などで問い合わせ、条件や対応のよかった2社を訪問して1社を選びました。同社の担当者は「手取り給料は30,000,000ドン(約138,000円)を超える」と説明しました。 私はこの会社に2019年2月に登録しましたが、リサーチ不足だったことが後で分かりました。人気職種の求人紹介が少なかったのです。たまに良い求人があっても、他の送出機関からの紹介で、採用された場合に20,000,000ドンの追加料金がかかります。このため、6月にやっと最初の面接を受け(不合格)、7月に2回目の面接で合格しました。不人気の建設業でしたが、焦りもあって仕方なく応募したのです。 不合格になった最初の採用面接〈ホーチミン市で2019年6月〉 3カ月で労働内容変更 私は2020年2月に訪日し、3月から富山県で技能実習を始めました。手取り給料は約104,000円(約22,666,000ドン)でした。工場で機械を使って鉄筋を折り曲げ、針金で束ねてから運ぶ仕事でした。 当初の契約書では、1年間はこの作業で、2年目から建築現場で働くことになっていました。しかし、実際には、3カ月で神奈川県に転勤させられて新しい契約書に署名させられ、東京・新宿の超高層ビル建築現場にかり出されました。手取り給料は約135,000円に増えましたが、仕事が過酷なうえ、職場環境にも問題がありました。 短かった富山での生活〈2020年3月〉 不平等な重労働 ここでの仕事は8:00~17:00ですが、家を出るのは5:30、帰宅は19:30でした。いくつかの会社から役割の違うチームが集まり、私たちの会社からは10~20人(半分以上がベトナム人)が出向いていました。私たちの役割は鉄筋を組み立てるための準備ですが、同じチームの若い日本人3人が楽な仕事を取り、私たち実習生は鉄筋運びが中心でした。鉄筋を肩に担いで数十㍍運びます。1人で20㌔以上、2人で約50㌔の鉄筋を運ぶこともあります。鉄筋運びばかりを1日中させられることもあり、歩けなくなるぐらい けなくなるぐらい疲れました。現場責任者が状況を把握しておらず、仕事の割り振りが不平等だったのです。 また、若い日本人3人は休憩時間などに私たちの悪口を言いふらしていました。先輩実習生によると、「仕事のできが悪い」「帰国すればいい」などと言っていたそうです。関係を良くしようと、私たちが休憩時間に飲み物を渡しても、彼らには無視されてしまいました。 新宿の超高層ビル建築現場〈2020年6月〉 ウーバーイーツ詐欺 こうした日々が続き、私は失踪を考え始めました。仕事の過酷さや職場の人間関係も原因ですが、期待していた給料より低かったことが最大の要因でした。このままでは実家の借金をなかなか返せないと思ったのです。手取り給料がせめて150,000円あれば、思いとどまっていたかも知れません 神奈川に転勤して1カ月後の7月4日(給料日の翌日)、同期のタム君(仮名)と私は失踪しました。そのころ、送出機関の同期で他社から先に失踪していたチェン君(仮名)が東京でウーバーイーツの仕事をしていました。ベトナムのグラブイーツと同じ仕事です。私たちは電車で東京のJR新大久保駅に行き、チェン君を訪ねました。彼は2段ベッドが3台置かれた狭い部屋に住んでいました。部屋の借主の留学生とチェン君ら失踪者3人がおり、私たちもここに1人1万円で2週間住ませてもらいました。 新大久保駅周辺〈資料写真〉 ウーバーイーツの仕事をするにはアカウントを作らなければなりませんが、技能実習生は登録できませ できません。そこで、アカウントのヤミ取引が行われています。私たちはチェン君の紹介で自称留学生のベトナム人2人に10万円ずつ払ってアカウントを購入しました。しかし、翌日にはログインできなくなり、彼らと連絡が取れなくなりました。私は売った男のSNS記録から彼の知人を探して男の住所を聞き出し、訪ねて行ってまず5万円を回収しました。ただ、相手はすぐに転居し、残額は回収できませんでした。 ウーバーイーツ配達員〈資料写真〉 不法就労へのプロセス そこで、私とタム君はFacebookページ“Tokyo Baito”で求人情報を探したり、失踪経験者などに問い合わせたりしました。私たちが使った送出機関の日本語教師(元実習生)2人にも問い合わせると、1人が日本に住む友人をSNSで紹介してくれました。その人からは、太陽光パネルや農業、解体の仕事があると連絡を受けましたが、勤務開始まで2週間かかるとのことだったので遠慮しました。 数日後、Tokyo Baitoで「長野県で農業の仕事。すぐに働ける」という趣旨の投稿を見つけました。私はSNSでたまたまつながっていた失踪実習生に「このバイトは信用できますか?」と尋ねました。彼は「大丈夫だ。この仕事のあっせん業者を紹介する」と言い、トゥンという人物をSNSで紹介してくれました。私とタム君はトゥン氏にメッセージを送り、先に返事をもらったタム君が翌日、長野県に行って農家を紹介されました。私にも1日遅れてトゥン氏から返信があり、偽造在留カードを作るためにパスポートと在留カードの写真を送信するよう指示されました。偽造費用の1万円を送金する際には、他人のキャッシュカードを使いました。私がネットでやり取りして違法に入手したカードでした。 不法就労現場の畑〈長野県川上村で2020年〉 7月14日、新幹線で長野県の佐久平駅に着くと、トゥン氏が待っていました。彼が運転する車で約1時間かけて長野県川上村に向かう途中、ホアンという人物も乗車しました。偽造在留カードはまだできておらず、ホアン氏の指示で農家の主人に本物を見せたのですが、主人は承諾しました。主人は不法就労と知りながら私を雇ったことになります。 私はホアン氏に2万円を払い、その日からここに住みました。寮は倉庫の2階でした。 偽造在留カードの費用を振り込むために使った他人のキャッシュカード 不法就労の実態 農家の仕事はハードでした。朝1時半に起きて、2時から11時半まで働きます。その間、休憩はわずか10分。その後、2時間の昼休みをはさんで13時半から16時半まで働きます。終業後は夕食とシャワーだけ済ませ、19時までに就寝します。未明の仕事では、ヘッドランプで照らしながらレタスの根元を包丁で切って収穫し、サイズを分けて箱詰めした後、トラックに載せます。午後は苗の植え付けや施肥、草 むしりなどをします。 作業をするのは日本人3人とベトナム人3人です。川上村と隣の南牧村では約1,500戸の農家が外国人労働者を必要としていますが、新型コロナの影響で外国人の入国が止まり、ホアン氏らの不法就労あっせんに頼る農家が続出していたようです。 午後は草むしりや施肥など〈長野県川上村で2020年〉 失職 当時はレタス出荷の最盛期で、9月末まで休日なしでしたが、手取り給料は7月(15日間):約15万円(約32,690,000ドン)▽8月:約24万円▽9月:約23万円――あったので、助かりました。ただ、10月には仕事が減り、約15万円になりました。給料はホアン氏らの会社の人が毎月車でやって来て現金で渡してくれました。毎月の出費は4万円くらいで、実家にたくさん送金できました。ただ、冬は給料が減るので、そろそろほかの仕事を探さなければと思っていた矢先、突然解雇されることになりました。 10月13日、会社からSNSで連絡が来ました。「警察に調べられている。ベトナム人労働者との契約を終える方向だ」という趣旨でした。0日、ベトナム人不法就労者100人以上が村の農協に集められ、大阪から来た日本人やホアン氏らから「ホアンアン合同会社に警察の捜査が入ったので、皆さんとの契約を終える。皆さん逃げてください」と通告されました。私は自分がホアンアンの派遣社員だったことを初めて知りました。27日、主人に駅まで車で送ってもらい、東京に戻りました。東京では、知人から紹介されたNPO法人に保護してもらいました。 午後は草むしりや施肥など〈長野県川上村で2020年〉 【編集部からの説明】 「ホアンアン合同会社」は大阪市内の会社で、2020年10月、代表社員の女性やダン・ヴ・ホアン業務執行役員が、無許可で労働者を供給したとして職業安定法違反容疑で逮捕され、その後、起訴されました。 失踪の結末 失踪して半月後、ビデオ通話中に私の部屋が以前と違うことに気付いた母に追及され、「失踪して農業をしている」と白状しました。母はとても心配しました。また、富山県の3カ月で計21万円、長野県の4カ月で計50万円を両親に送りましたが、失職後の2カ月間半は無収入でした。失踪すると雇用が安定せず、無職の時期もできるので、失踪せず地道に働き続ける方が、結局はたくさん送金できるようです。 ◆ わが家の借金と返済の状況 借金 返済 借金残額 1 倒産 700,000,000 đ 700,000,000 đ 2 家と水田売却 250,000,000 đ 450,000,000 đ 3 両親の工場勤務 150,000,000 đ 300,000,000 đ 4 私の訪日費用 190,000,000 đ 490,000,000 đ 5 家財売却 30,000,000 đ 460,000,000 đ 6 親せきの援助 130,000,000 đ 330,000,000 đ 7 私からの送金 150,000,000 đ 180,000,000 đ ※100,000,000₫ =約458,400円(2021年2月22日現在) 私は今では、失踪したことを後悔しています。不法就労は精神的にも疲れました。しかも、農家の仕事は工事現場の仕事と同じぐらいきつかったうえ、夜間や休日の割り増し賃金が支払われませんでした。それなのに、不法就労なのでどこにも相談できませんでした。今なら、技能実習先で困難があれば、まず監理団体に相談します。それでだめなら外国人技能実習機構(OTIT)や民間の支援機関に相談します。 私はNPO法人日越ともいき支援会 の支援で2021年1月から介護のアルバイトをしています。今の手取りは11万~13万円ですが、試験に受かって特定技能外国人になれれば、給料が上がり長期間働けます。地道に働いて借金を返し、将来のために貯金もしたいと思います。 日越ともいき支援会で〈2020年10月〉
2021年03月19日
今回の先輩 ルー・ホン・ゴックさん 2012年 ホーチミン国家大学付属英才高校卒業 2012年 ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2013年 盛岡情報ビジネス専門学校入学〈岩手県〉 2015年 秋田大学医学部医学科入学〈秋田県〉 〈1994年生まれ、ホーチミン市出身〉 地域医療への貢献を条件に日本語学校と大学医学部の計8年間の学費・生活費の全額を自治体の奨学金で負担してもらっているゴックさん。地域に溶け込み、医学部の日本人仲間に溶け込みながら、医師への道を着実に歩んでいる。 〈このページの内容〉 • 米国留学か日本留学か • 日本を選んだ理由 • 好条件の奨学金 • 留学準備(日本語) • 大学医学部合格への道 • 医学部での取り組み • 大学の仲間 • 暮らしとアルバイト • 地域貢献のやりがい 米国留学か日本留学か 米国に留学した高校の同級生3人と6年ぶりに米国で再会〈ロサンゼルスで2019年〉 私の親せきには留学経験者が多いので、私も早くから留学を考えていました。 ・祖母(母の母)=中国留学 ・母の姉=ドイツ留学(今もドイツ在住) ・母の妹=豪州留学(今も豪州在住) そのため、小学生のときから英会話を習い、高校でも英語クラスを選択しました。英語クラスの先輩には米国留学者がたくさんいます。米国留学での奨学金は高校3年の1~3月に応募しなければならないので、早くから情報を集め、応募書類をそろえる必要があります。私も英語クラスの先輩たちから情報を集めていました。 一方、高2のときに日本留学に関する説明会が学校であり、日本の大学で英語での授業を受けるコースがあることも知っていたので、それに関する情報もネットで集めていましたた。 日本を選んだ理由 大好きな祖母〈岩手県で2019年〉 私は医学部に行きたかったのですが、情報を集めていくと、米国留学ではかなり費用がかかることが分かりました。米国で大学に入ってから医師になるまでには最短8年かかり、留学費用の一部を奨学金でカバーできたとしても、残りの自己負担が大き過ぎるのです。 そんなとき、祖母が日本留学に関するある情報を見つけてきました。それは、祖母がかつて通訳として働いていた医師の少ない地域の自治体が提供している奨学金制度で、医師になってからその地域の病院で数年間働くことを条件に、留学中の学費と生活費のすべてを自治体が負担するというものです。私はこの奨学金に応募し、高校3年生の年の12月か1月に受給が決まりました。 【奨学金申請での提出物】 成績表、志望動機書、校長の推薦書(ベトナム語)、推薦書の日本語訳など。 好条件の奨学金 秋田大学医学部に合格し、当時の一戸町長に報告〈2015年〉©毎日新聞社 私が受けた奨学金は岩手県一戸(いちのへ)町が提供する「医学生奨学金」です。日本語学校2年と大学医学部6年の計8年間の生活費(日本語学校時代は月10万円、大学では月16万円)と学費が支給されます。形式的には貸与ですが、医師になってから県立一戸病院で8年間勤務すれば、返済を免除されます。 高校卒業後にゼロから日本語を学び、日本語で医学を修得するという高いハードルで、実際、簡単ではありませんでした。しかし、奨学金のおかげでアルバイトに時間をかけずに済んだので、乗り越えられました。また、英語以外の外国語をマスターでき、自分の世界がさらに広がりました。 留学準備(日本語) 盛岡で一緒に勉強したドンズー仲間とは大学でも仲良し〈秋田大学で2017年〉 私は2012年5月に高校を卒業し、8月から約半年間、留学準備のためホーチミンのドンズー日本語学校に通いました。日本留学を目指す同校の生徒は通常、留学コースに入り、寮生活をしながら1年間学習します。私は寮に入りたくなかったので、初級集中コースで毎日午前中だけ授業を受け、午後は約5時間自習しました。訪日前の日本語レベルはJLPT(日本語能力試験)N4でした。 2013年4月、私はドンズーと提携する盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科(日本語学校)に入学しました。この学校は岩手県盛岡市にあります。盛岡では他のドンズー卒業生とも交流しましたが、私だけ留学コースではなかったので、最初は珍しがられました。 大学医学部合格への道 盛岡の日本語学校で同級生と〈2015年〉 日本語学校での2年間は日本語学習と大学入試の準備に集中しました。午前は授業で、午後は自習です。日本の大学に入るには、日本学生支援機構(JASSO)主催の日本留学試験(EJU)を年に2回受け、その成績を大学に提出しなければなりません。私はEJUで数学、化学、生物を選択しました。EJU対策では、学校の授業のほか、「理解しやすい」シリーズ(文英堂)などの問題集に取り組み、自分の理解があいまいだった問題をくり返し解きました。秋田大学の入試(私費外国人留学生入試)では、EJUの成績提出以外に数学、英語の試験と面接を受けました。 日本語については、学校で習ったことを完全マスターすることに集中し、繰り返し復習しました。また、私は音楽が好きなので、日本の歌(EXILEなど)をよく聴いてヒアリング練習の代わりにしました。分からない歌詞があれば調べて覚えました。生活の中でもなるべく日本語を使うように心がけました。こうして留学1年目にJLPT・N2、翌年にN1に合格しました。 医学部での取り組み 実習先の病院で休憩時間に〈2021年〉 秋田県は岩手県の隣にあります。私は岩手県で暮らしてみて、人のやさしさや物価の安さが好きになり、大学もこのエリアで選ぼうと思いました。そして、福島県立医科大学や岩手医科大学も検討しましたが、入試科目が数学と英語だけということが決め手になり、秋田大学を選びました。 大学入学後に1年間休学したので今は5年生です。4年の後期から1年間は、秋田大学附属病院で全診療科の実習をしました。5年後期からは、附属病院と外部の病院で実習を重ねています。5週間にわたって電車とバスで約1時間かけて病院に通ったこともあります。来年2月には医師国家試験を受けます。 卒業後は臨床研修が必要で、その期間は「研修医」と呼ばれます。研修期間は計5年のことが多く、最初の2年間は初期研修、残り3年間は後期研修です。研修がすべて終われば一戸町で医師をします。私は初期研修は東京などの大都会でやりたいと思っています。症例を多く経験できますし、日本の都会暮らしも少しだけ体験してみたいからです。 大学の仲間 医学部の同じ実習班の仲間と飲み会〈2020年〉 秋田大学にはベトナム人留学生が20人以上おり、ときどき飲み会をします。その中で盛岡の日本語学校の同期とは一緒に旅行に行くこともあります。 そして、一番付き合いが深いのは医学部の日本人の仲間です。医学部約120人の同期の中で留学生は私1人ですが、医学部では授業数が多く、朝から夕方まで仲間と一緒にいるため横のつながりが強くなります。病院実習が始まってからは、同じ実習班の5、6人で下宿(アパート)で遅くまで飲むこともよくあります。 医学部ダンス部の同期〈2018年〉 また、医学部だけ定期試験の日程が他学部と違ったり、病院実習があったりするので、サークル(部活動)も医学部生だけのサークルが多数あります。私は医学部ダンス部や全学のダンスサークル(S.P.Y)などに所属し、毎年、学園祭でダンスを披露してきました。 S.P.Yの仲間たち〈秋田大学で2017年〉 S.P.Yの同学年の仲間〈秋田大学で2018年〉 暮らしとアルバイト ホームステイ先のご家族と〈一戸町で2013年〉 訪日して1年目は、一戸町が紹介してくれた家庭にホームステイしました。私と年の近い3女が両親と一緒に住み、結婚した長女も子どもさんを連れて時々遊びにきました。ご家族にはとても親切にして頂きました。ただ、通学に往復約2時間半かかるので、2年目は盛岡に住みました。 日本語学校時代は、ドンズー仲間2人と一緒に8カ月間、農業のアルバイトをしました。キャベツや大根、にんじんなどの収穫、洗浄、箱詰めをする仕事で、土日曜の朝から夕方までです。学校からの紹介で、社会勉強になりました。大学1年のときは塾で中学生に数学と英語を教えましたが、電車が少なく帰宅が遅いので半年でやめ、その後はスーパーのレジ担当を1年間やりました。 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学5年 ※100円=21,831ドン(2021年2月20日現在) 収入(合計 約160,000円) 奨学金 160,000円 支出(合計 約125,000円) 家賃 30,000円 ※1人暮らし(ベッドルーム+リビングルーム) 光熱費 7,000円~15,000円 ※電気・ガス・水道の合計(冬は高い) 携帯電話 6,000円 インターネット 5,000円 学費 0円 ※生活費とは別に奨学金でカバー 食費 50,000円 ※昼は大学の食堂、夜は自炊が多い ※外食や飲み会を含む 部活・サークル 10,000円 ※飲み会の費用や大会参加費用など 教科書、模試、ネット予備校 10,000円 ※国家試験などの準備 差額(貯金)平均35,000円 ※仕送りなし。送金なし。 盛岡の日本語学校同期と旅行〈左:東京で2018年、右:ソウルで2019年〉 祖母が通訳の仕事で東京に来るときによく会いに行くほか、大阪・京都にも3、4回旅行しました。また、医学部の同期やダンス・サークルの仲間、日本語学校の同期などと一緒に韓国や台湾、日本各地にも旅行しました。 地域貢献のやりがい 医学部ダンス部の仲間と小旅行〈秋田県内で2019年〉 秋田県や岩手県を含む地域を東北地方と呼びます。東北地方の多くの町は都会ではありませんが、私はどこで医療をしても仕事の内容や価値は同じだと思います。また、今はネットで何でも購入できるので、買い物の点でもさほど不便はありません。 私が日本に来たとき、一戸町役場が20人以上で私の歓迎会をしてくれました。この町で私が医師としてどれだけ期待されているかが伝わりました。ホームステイ先のご家族とは今もLINEで連絡し合うほか、ときどき家に「帰省」します。一戸町の皆さんとも顔なじみです。求められて働くことはとてもやりがいのあることで、私は将来、この町に戻って地域の皆さまのために働くことをとても楽しみにしています。 S.P.Yの仲間とパーティー〈2020年〉 医学部ダンス部の仲間と東京旅行〈2019年〉 今回の先輩 Luu Hong Ngoc(ルー・ホン・ゴック)さん 2012年 ホーチミン国家大学付属英才高校卒業 2012年 ドンズー日本語学校入学〈ホーチミン〉 2013年 盛岡情報ビジネス専門学校入学〈岩手県〉 2015年 秋田大学医学部医学科入学〈秋田県〉 〈1994年生まれ、ホーチミン市出身〉 地域医療への貢献を条件に日本語学校と大学医学部の計8年間の学費・生活費の全額を自治体の奨学金で負担してもらっているゴックさん。地域に溶け込み、医学部の日本人仲間に溶け込みながら、医師への道を着実に歩んでいる。 〈Nội dung bài viết〉 • 米国留学か日本留学か • 日本を選んだ理由 • 好条件の奨学金 • 留学準備(日本語) • 大学医学部合格への道 • 医学部での取り組み • 大学の仲間 • 暮らしとアルバイト • 地域貢献のやりがい 米国留学か日本留学か 私の親せきには留学経験者が多いので、私も早くから留学を考えていました。 ・祖母(母の母)=中国留学 ・母の姉=ドイツ留学(今もドイツ在住) ・母の妹=豪州留学(今も豪州在住) そのため、小学生のときから英会話を習い、高校でも英語クラスを選択しました。英語クラスの先輩には米国留学者がたくさんいます。米国留学での奨学金は高校3年の1~3月に応募しなければならないので、早くから情報を集め、応募書類をそろえる必要があります。私も英語クラスの先輩たちから情報を集めていました。 一方、高2のときに日本留学に関する説明会が学校であり、日本の大学で英語での授業を受けるコースがあることも知っていたので、それに関する情報もネットで集めていましたた。 米国に留学した高校の同級生3人と6年ぶりに米国で再会〈ロサンゼルスで2019年〉 日本を選んだ理由 私は医学部に行きたかったのですが、情報を集めていくと、米国留学ではかなり費用がかかることが分かりました。米国で大学に入ってから医師になるまでには最短8年かかり、留学費用の一部を奨学金でカバーできたとしても、残りの自己負担が大き過ぎるのです。 そんなとき、祖母が日本留学に関するある情報を見つけてきました。それは、祖母がかつて通訳として働いていた医師の少ない地域の自治体が提供している奨学金制度で、医師になってからその地域の病院で数年間働くことを条件に、留学中の学費と生活費のすべてを自治体が負担するというものです。私はこの奨学金に応募し、高校3年生の年の12月か1月に受給が決まりました。 【奨学金申請での提出物】 成績表、志望動機書、校長の推薦書(ベトナム語)、推薦書の日本語訳など。 大好きな祖母〈岩手県で2019年〉 好条件の奨学金 私が受けた奨学金は岩手県一戸(いちのへ)町が提供する「医学生奨学金」です。日本語学校2年と大学医学部6年の計8年間の生活費(日本語学校時代は月10万円、大学では月16万円)と学費が支給されます。形式的には貸与ですが、医師になってから県立一戸病院で8年間勤務すれば、返済を免除されます。 高校卒業後にゼロから日本語を学び、日本語で医学を修得するという高いハードルで、実際、簡単ではありませんでした。しかし、奨学金のおかげでアルバイトに時間をかけずに済んだので、乗り越えられました。また、英語以外の外国語をマスターでき、自分の世界がさらに広がりました。 秋田大学医学部に合格し、当時の一戸町長に報告〈2015年〉©毎日新聞社 留学準備(日本語) 私は2012年5月に高校を卒業し、8月から約半年間、留学準備のためホーチミンのドンズー日本語学校に通いました。日本留学を目指す同校の生徒は通常、留学コースに入り、寮生活をしながら1年間学習します。私は寮に入りたくなかったので、初級集中コースで毎日午前中だけ授業を受け、午後は約5時間自習しました。訪日前の日本語レベルはJLPT(日本語能力試験)N4でした。 2013年4月、私はドンズーと提携する盛岡情報ビジネス専門学校日本語学科(日本語学校)に入学しました。この学校は岩手県盛岡市にあります。盛岡では他のドンズー卒業生とも交流しましたが、私だけ留学コースではなかったので、最初は珍しがられました。 盛岡で一緒に勉強したドンズー仲間とは大学でも仲良し〈秋田大学で2017年〉 大学医学部合格への道 日本語学校での2年間は日本語学習と大学入試の準備に集中しました。午前は授業で、午後は自習です。日本の大学に入るには、日本学生支援機構(JASSO)主催の日本留学試験(EJU)を年に2回受け、その成績を大学に提出しなければなりません。私はEJUで数学、化学、生物を選択しました。EJU対策では、学校の授業のほか、「理解しやすい」シリーズ(文英堂)などの問題集に取り組み、自分の理解があいまいだった問題をくり返し解きました。秋田大学の入試(私費外国人留学生入試)では、EJUの成績提出以外に数学、英語の試験と面接を受けました。 日本語については、学校で習ったことを完全マスターすることに集中し、繰り返し復習しました。また、私は音楽が好きなので、日本の歌(EXILEなど)をよく聴いてヒアリング練習の代わりにしました。分からない歌詞があれば調べて覚えました。生活の中でもなるべく日本語を使うように心がけました。こうして留学1年目にJLPT・N2、翌年にN1に合格しました。 盛岡の日本語学校で同級生と〈2015年〉 医学部での取り組み 秋田県は岩手県の隣にあります。私は岩手県で暮らしてみて、人のやさしさや物価の安さが好きになり、大学もこのエリアで選ぼうと思いました。そして、福島県立医科大学や岩手医科大学も検討しましたが、入試科目が数学と英語だけということが決め手になり、秋田大学を選びました。 大学入学後に1年間休学したので今は5年生です。4年の後期から1年間は、秋田大学附属病院で全診療科の実習をしました。5年後期からは、附属病院と外部の病院で実習を重ねています。5週間にわたって電車とバスで約1時間かけて病院に通ったこともあります。来年2月には医師国家試験を受けます。 卒業後は臨床研修が必要で、その期間は「研修医」と呼ばれます。研修期間は計5年のことが多く、最初の2年間は初期研修、残り3年間は後期研修です。研修がすべて終われば一戸町で医師をします。私は初期研修は東京などの大都会でやりたいと思っています。症例を多く経験できますし、日本の都会暮らしも少しだけ体験してみたいからです。 実習先の病院で休憩時間に〈2021年〉 大学の仲間 秋田大学にはベトナム人留学生が20人以上おり、ときどき飲み会をします。その中で盛岡の日本語学校の同期とは一緒に旅行に行くこともあります。 そして、一番付き合いが深いのは医学部の日本人の仲間です。医学部約120人の同期の中で留学生は私1人ですが、医学部では授業数が多く、朝から夕方まで仲間と一緒にいるため横のつながりが強くなります。病院実習が始まってからは、同じ実習班の5、6人で下宿(アパート)で遅くまで飲むこともよくあります。 医学部の同じ実習班の仲間と飲み会〈2020年〉 また、医学部だけ定期試験の日程が他学部と違ったり、病院実習があったりするので、サークル(部活動)も医学部生だけのサークルが多数あります。私は医学部ダンス部や全学のダンスサークル(S.P.Y)などに所属し、毎年、学園祭でダンスを披露してきました。 医学部ダンス部の同期〈2018年〉 S.P.Yの仲間たち〈秋田大学で2017年〉 S.P.Yの同学年の仲間〈秋田大学で2018年〉 暮らしとアルバイト 訪日して1年目は、一戸町が紹介してくれた家庭にホームステイしました。私と年の近い3女が両親と一緒に住み、結婚した長女も子どもさんを連れて時々遊びにきました。ご家族にはとても親切にして頂きました。ただ、通学に往復約2時間半かかるので、2年目は盛岡に住みました。 日本語学校時代は、ドンズー仲間2人と一緒に8カ月間、農業のアルバイトをしました。キャベツや大根、にんじんなどの収穫、洗浄、箱詰めをする仕事で、土日曜の朝から夕方までです。学校からの紹介で、社会勉強になりました。大学1年のときは塾で中学生に数学と英語を教えましたが、電車が少なく帰宅が遅いので半年でやめ、その後はスーパーのレジ担当を1年間やりました。 ホームステイ先のご家族と〈一戸町で2013年〉 私の家計簿(1カ月の平均) ※大学5年 ※100円=21,831ドン(2021年2月20日現在) 収入(合計 約160,000円) 奨学金 160,000円 支出(合計 約125,000円) 家賃 30,000円 ※1人暮らし(ベッドルーム+リビングルーム) 光熱費 7,000円~15,000円 ※電気・ガス・水道の合計(冬は高い) 携帯電話 6,000円 インターネット 5,000円 学費 0円 ※生活費とは別に奨学金でカバー 食費 50,000円 ※昼は大学の食堂、夜は自炊が多い ※外食や飲み会を含む 部活・サークル 10,000円 ※飲み会の費用や大会参加費用など 教科書、模試、ネット予備校 10,000円 ※国家試験などの準備 差額(貯金)平均35,000円 ※仕送りなし。送金なし。 祖母が通訳の仕事で東京に来るときによく会いに行くほか、大阪・京都にも3、4回旅行しました。また、医学部の同期やダンス・サークルの仲間、日本語学校の同期などと一緒に韓国や台湾、日本各地にも旅行しました。 盛岡の日本語学校同期と旅行〈左:東京で2018年、右:ソウルで2019年〉 地域貢献のやりがい 秋田県や岩手県を含む地域を東北地方と呼びます。東北地方の多くの町は都会ではありませんが、私はどこで医療をしても仕事の内容や価値は同じだと思います。また、今はネットで何でも購入できるので、買い物の点でもさほど不便はありません。 私が日本に来たとき、一戸町役場が20人以上で私の歓迎会をしてくれました。この町で私が医師としてどれだけ期待されているかが伝わりました。ホームステイ先のご家族とは今もLINEで連絡し合うほか、ときどき家に「帰省」します。一戸町の皆さんとも顔なじみです。求められて働くことはとてもやりがいのあることで、私は将来、この町に戻って地域の皆さまのために働くことをとても楽しみにしています。 医学部ダンス部の仲間と小旅行〈秋田県内で2019年〉 S.P.Yの仲間とパーティー〈2020年〉 医学部ダンス部の仲間と東京旅行〈2019年〉
2021年03月15日